【第40回】
青山と中村草田男
広渡敬雄(「沖」「塔の会」)
青山の地名の謂れは、旧郡上藩青山家の下屋敷があったことに拠る。明治5(1872)年、そこに日本最初の公営青山霊園が造営され、以後北側に青山練兵場(その後神宮外苑と明治天皇の生涯の事績を描いた名画展示の「聖徳記念絵画館」)も出来、華族、軍人、高級官僚等上級階級の住民が増え、ハイカラな街となった。戦後、進駐軍に接収され、米国文化が浸透し、ブランド店、外資系企業が集まり、最先端のファッションの国内でも有数の知名度の高い国際的地域となり、根津美術館、青山学院大学もある。
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
突風や喪服黒白春うたた 阿波野青畝
青山の墓地の空なる花火かな 京極杞陽
参道を外れぬ限り木の葉浴ぶ 百瀬美津
観兵碑へ雀隠れを踏みてゆく 広渡敬雄
日除張るライトブルーにふらんす語 宇都宮 沢
〈降る雪や〉は、昭和6(1931)年の作。自解では「たまたま二十年ぶりに通りかかった母校で雪が降り出すと校門に金釦の外套の子が現れて、絣の着物と青袴、高足駄の自分の頃との歳月の隔たりを感じた」とある。同52年の青南小学校設立七十周年記念の折、校舎前庭に句碑が建立され、草田男自身の手で除幕し代表句となった。句会では、虚子選に入らず、句会後のエレベーターで顔を合わせた時、虚子から拾っておこうと追加されたとある。
〈獺祭忌明治は遠くなりにけり〉(志賀芥子)という先行句があるとの指摘に対し、高柳重信は「『獺祭忌』は連想範囲が子規とその周辺に限られるが、『降る雪や』はその裾野を最大限に拡げてゆける見事な詩的限定」と絶賛する。又、「自解と異なり当句の詠嘆は下町の情緒で解したい」(小西甚一)、「叙法上の欠点、つまり一句に二つの切字の読み込み。それさえ強い感動に調和されている」(榎本好宏)、「明治が終了して二十年。時間的長さに加え、生活、精神面の隔たりを遠く感じたのだろう」(内藤美彦)の評もある。
中村草田男は、明治34(1901)年、父が清国領事として赴任していた廈門で生れ、本名清一郎。三歳の折父の本籍地松山に帰国し、小学校時代は青山尋常小学校(現青南小学校)等に通学。その後、旧制松山中学、松山高校を経て大正14(1925)年、東京帝国大学文学部独逸文学科に入学した。休学や国文科への転科を経て昭和8(1933)年、年32歳で卒業後、成蹊学園に就職。俳句は、28歳の時、大伯母山本鶴を介して高浜虚子に師事、直ぐに「ホトトギス」に四句入選し有望新人登場と期待された。東大俳句会では、水原秋櫻子の指導も受けた。
俳号「草田男」は、神経衰弱や最愛の祖母、兄事した義従兄三土興三の死等で休学した長い青春彷徨により、親類から「お前は腐ったようなヤツだ」と言われ、くさたお(腐った男)としたとされる。昭和11(1936)年、十数回の見合いを経て35歳で生涯の伴侶福田直子と結婚、虚子の名高い序文「印度洋を航海して居る時もときどき頭をもたげて来るのは 秋の航一大紺円盤の中 草田男 といふ句でありました」の第一句集『長子』を上梓した。
同14年より、「成層圏」(学生俳句連盟機関誌)を指導し、「俳句研究」の座談会で加藤楸邨、石田波郷等と共に人の内面心理を詠むことを論じ、「人間探究派」と称された。草田男は、俳句を「芸」(俳句の特殊性)と「文学」(内面の無制約性)から成り立つものと考えており、後者が欠けるとして「ホトトギス」派の伝統俳句を、前者を放棄しているとして新興俳句、前衛俳句、社会性俳句を批判した。同十五年には新興俳句弾圧事件等があり、また「花鳥諷詠」の「ホトトギス」内では孤立も深め、投句を止めた。
戦後早々の同21(1946)年、俳誌「萬緑」を創刊主宰。成田千空、香西照雄、北野民夫、磯貝碧蹄館、奈良文夫、鍵和田秞子、竹中宏、横澤放川等を育てつつ、東京新聞、朝日俳壇選者となる。同35(1960)年には現代俳句協会設立に尽力し幹事長に就任するも、賞を巡って協会内が分裂。翌年俳人協会を設立し、初代会長となった。同58(1983)年8月5日、享年82歳で永眠。五日市カトリック霊園の御影石の石棺に〈勇気こそ地の塩なれや梅真白〉と刻まれた。
又平成23年の11月、成蹊大学構内に創立百周年記念として「居所を失ふところとなり、勤め先の学校の寮の一室に家族と共に生活す」の前書きの〈空は太初の青さ妻より林檎受く〉の句碑が建立された。「草田男が妻子を詠んだ句は、彼の俳句の楽しさの中枢である。彼の妻子はいわば、彼の幸福への意志として、生命への意欲としてそこにあり、その存在の強固さは、肉身としてつながる本能的な強さでもある」(山本健吉)、「先入観を絶って無垢の目に映じた新鮮なイメージの定着(童心的驚き)、日本人としての情感のきめの中に溶かし込んだ西欧的美意識、内在律の生動」(香西照雄)。「東洋と西洋という本来全く異質な世界を俳句という小さな形式の中で渾然と融合して見せた魅力」(鍵和田秞子)、「最も深く近代思想を伝統的な俳句で受け止めた」(宗田安正)等の評がある。句集は、『長子』『火の島』『萬緑』『大虚鳥』(死後刊)他、メルヘン集『風船の使者』(芸術選奨文部大臣賞)。
校塔に鳩多き日や卒業す
蟾蜍長子家去る由もなし
玫瑰や今も沖には未来あり
曼珠沙華落暉も蕊をひろげけり
冬の水一枝の影も欺かず
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る
萬緑の中や吾子の歯生え初むる
壮行や深雪に犬のみ腰をおとし
白鳥といふ一巨花を水に置く
焼跡に遺る三和土や手毬つく
種蒔ける者の足あと洽しや
葡萄食ふ一語一語の如くにて
あたゝかき十一月もすみにけり
旧景が闇を脱ぎゆく大旦
若き日の精神衰弱を俳句で救われ、愛すべきピュアな騎士道精神で俳句に正面から向き合った俳人である。
(「青垣」25号加筆再構成)
【番外編】
中村草田男は、昭和20年、戦時援農勤労で成蹊中学生を連れて福島県旧安達町(現・二本松市)に疎開しました。高国寺には「句碑 みちのくの蚯蚓短かし山坂勝ち」があります。
【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。俳人協会幹事。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。俳人協会幹事。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。
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