みすずかる信濃は大き蛍籠
伊藤伊那男
蛍は夏の風物詩。求愛のために、闇の中、青白い光を明滅させながら飛び交う儚い風情は、古くから日本人にこよなく愛されてきた。
筆者もその一人。新型コロナウイルス感染拡大以前は、ちょうど蛍の季節に日本へ帰省していて、郷里の長野県、別名信州の蛍の名所、辰野町松尾峡の「ほたる祭」に毎年足を運んでいた。
単線のローカル線、飯田線に揺られて夕暮れの駅に降り、天竜川を聞きながら、水田と畑沿いの道を野辺の花を目で追いながら、一歩一歩ゆく先は蛍の生息する広い水辺。まばたきする度に暮れてゆく、樹々や水辺の草むらの甘い匂い。そこに、ちらりちらりと蛍。闇の深まりとともに、その数を増やし、1万匹以上の蛍が乱れ飛ぶ姿は、まさに幻想的。蛍が好むという風もなく蒸し暑い闇。この蛍の闇に体も心も溶け出してゆく感覚が好きだ。
辰野町松尾峡は、東日本では最多数のゲンジボタルが見られる「ほたるの里」として明治時代から有名だというが、水の美しい信州には、この他にも、蛍の名所がたくさんあるそうで、長野県の情報サイトには20ほど挙げられていた。おそらくその他にも、その集落の人々だけが知る隠れた名所がたくさんあるに違いない。
みすずかる信濃は大き蛍籠
〈みすずかる〉の、「み」は接頭語、「すず」は篠竹、別名、篶をいい、篠竹の産地の意味で、信濃にかかる枕詞。信濃は現在の長野県。
この枕詞には逸話がある。『万葉集』の歌にあった、本来は「みこもかる」と読むべき「水(三)薦刈」の表記を、近世の国学者が「みすずかる」つまり「水(三)篶刈る」と読んだことから慣用化した語であり、昭和以降の研究ではこれを誤用とし、『万葉集』の歌では「みこもかる」と読むのが主流になっているという。『万葉集』からは消えてしまったかもしれないが〈みすずかる〉は信濃の枕詞として親しまれ受け継がれている。たとえば、信州の銘菓「みすず飴」はこの枕詞にちなんで明治時代に命名されたという。また、去る5月に他界された小林亜星氏作曲、永六輔氏作詞による唱歌「小諸わが想い出」も「みすずかる信濃の国の」の一節から始まる。
そして、掲句も〈みすずかる〉に生命を吹き込んだ。
作者は長野県、別名信州または信濃に生まれ育った。夏の蛍は馴染みの深いものだろう。
〈蛍籠〉は、蛍を入れて飼う籠。かつては藁を編んだり、木枠に布を張って作ったという。手作りの籠の蛍はまた格別だろう。
四方を山に囲まれた信濃、蛍がいたるところに舞い飛ぶ信濃を〈蛍籠〉と言い得たところに詩心が冴える。そして故郷を思う心が幾万、幾億の蛍の光となって読者に届く。
七夕の今宵、信濃という大きい蛍籠の光と満天の星の光が響き合う。
(月野ぽぽな)
【執筆者プロフィール】
月野ぽぽな(つきの・ぽぽな)
1965年長野県生まれ。1992年より米国ニューヨーク市在住。2004年金子兜太主宰「海程」入会、2008年から終刊まで同人。2018年「海原」創刊同人。「豆の木」「青い地球」「ふらっと」同人。星の島句会代表。現代俳句協会会員。2010年第28回現代俳句新人賞、2017年第63回角川俳句賞受賞。
月野ぽぽなフェイスブック:http://www.facebook.com/PoponaTsukino
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