俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第53回】 秋篠寺と稲畑汀子


【第53回】
秋篠寺と稲畑汀子

広渡敬雄(「沖」「塔の会」)


秋篠寺は、奈良丘陵の西側、佐紀丘陵の西に広がる秋篠の里にあり、南方には西大寺がある。奈良時代に法相宗の僧・善珠による創建とされ(続日本書記)、その後皇室とも関連深い寺院となった。真言宗寺院となった平安時代には、寺領を増大させたが、主要伽藍を焼失した。鎌倉時代に再建された本堂は国宝。重要文化財の伎芸天立像は、本堂仏壇の向かって左端に立ち、瞑想的な表情と優雅な身のこなしで、「東洋のミューズ」と呼ばれ、多くの人を魅了し、俳人だけでなく「諸々のみ佛の中の伎芸天何のえにしぞわれを見たまふ」(川田順)と歌人にも詠まれている。

秋篠寺(奈良市観光協会)

一枚の障子明りに伎芸天     稲畑汀子

秋篠はげんげの畦に仏かな    高浜虚子

東門は少し小さく萩も咲き    高野素十

馬酔木咲く金堂の扉にわれ触れぬ 水原秋櫻子

一燭に春寧からむ伎芸天     阿波野青畝

女身仏に春剥落のつゞきをり   細見綾子

伎芸天在しまさねど春去りぬ   日野草城

春寒の闇一枚の伎芸天      古舘曹人

〈伎芸天〉は、平成元年作、第四句集『障子明り』に収録。「暗闇に目が馴れると足許の一枚の障子から差す雪明りが、伎芸天の豊かな頬を浮き上がらせて何とも美しかった」と述べ、近々虚子記念文学館に句碑が建立される。

「流れるような調べに乗せて、光と影が見事に交叉する美しい世界があり、遂に対象を一体化した作者が、そこにひそと佇んでいる。まるで能の世界」(岩岡中正)、「主観的な感動を抑制し、その美しさ、魅力を一言も言わず「障子明り」に託し、客観写生に徹した」(寿限無)の鑑賞がある。

技芸天像

稲畑汀子は、昭和6(1931)年、高浜年尾の次女として横浜・本牧生れ、命名は虚子。四歳で芦屋市に転居、小林聖心女子学院小学部に入学した頃から祖父虚子、父年尾から俳句を学ぶ。同24(1949)年、体を悪くして同院英語専攻科を中退、同31年稲畑順三と結婚、二男一女の母となる。同34年虚子逝去、同40年、「ホトトギス」同人・初巻頭後、第一句集『汀子句集』を上梓、年尾の序に「天衣無縫に自分の心持ちを表現」とある。

同54(1979)年、父年尾の逝去により「ホトトギス」主宰、同57年には、「朝日俳壇」選者となった。

日本各地のホトトギス会員との紐帯を深め、多くの句碑を建立、精力的に評論・句文・随筆も著し、『ホトトギス新歳時記』『ホトトギス季寄せ』も編纂した。同62(1987)年には日本伝統俳句協会設立、平成12(2000)年には芦屋に虚子記念文学館を開館し理事長に就任した。

同17(2005)年にホトトギス雑詠選者、同25年には、「ホトトギス」1400号を機に、稲畑廣太郎に主宰を譲り名誉主宰となる。令和元年(2019)年、NHK放送文化賞、山本健吉賞受賞。同4年、40年間務めた「朝日俳壇」選者を退任し、2月27日心不全で逝去、享年91歳。逝去後『稲畑汀子俳句集成』が刊行された。

句集は他に『汀子第三句集』『さゆらぎ』『花』『月』等。未完句集に『風の庭』。評論・随筆には『舞ひやまざるは』『俳句に親しむ』『俳句十二か月―自然とともに生きる俳句』『虚子百句』『俳句と生きる』等、編書に『高浜年尾の世界』『よみものホトトギス百年史』『ホトトギス名作文学集』『ホトトギスの俳人一〇一』他。

「汀子俳句の共通の分母は、対象に気楽に取材し、発想を気楽に捉える」(藤田湘子)、「汀子俳句は、対象を静止相で捉えず、生動状態、動の相で捉えるが、この特徴は生得の詩質に加え、俳句作家としての強い志操と熱い挺身による面も大きい」(友岡子郷)、「汀子は大きなものにたじろがぬ生来の恰幅の良さがあった」(宇多喜代子)、「人間の喜怒哀楽を季題に託して描き出すのが、花鳥諷詠。汀子の描く世界は広く、俳句という文芸の表現能力を開発し続けた」(大輪靖宏)、「基本的に『奉仕の人』で、一切を諾う『肯定の文学』」(岩岡中正)、「敬虔なカトリック信者ながら東洋的なアニミズム的思想にも傾倒し、森羅万象に霊魂が宿ると捉えていた」(山田佳乃)等々の評がある。

今日何も彼もなにもかも春らしく

流れ来しものの中より水馬

コスモスの色の分れ目通れさう

落椿とはとつぜんに華やげる

長き夜の苦しみを解き給ひしや (夫稲畑順三逝去)

空といふ自由鶴舞ひやまざるは

地吹雪と別に星空ありにけり 

雪沓の音が雪なき道あるく

海見えて風花光るものとなる

初蝶を追ふまなざしに加はりぬ

鉾のこと話す仕草も京の人

森抜けてゆく一本の冬木より

道曲がるとき菜の花の列曲る

洗礼の済みしみどり児風花に

月の夜の光る芒となるべかり

命惜し命惜しとて鉦叩

淡々と冬日は波を渡りけり

三椏の花三三が九三三が九

小さきは小さく侍る雛かな

まだ風の棲まぬ静けさ青芒

福笑よりも笑つてをりにけり

物置かぬことに徹して夏座敷

稲妻の中稲妻の走りけり

祈りとは心のことば花の下 (震災句)

東京を発ちたる仲間冬ぬくし (絶筆)

虚子・年尾を引き継ぎ、百二十有余年日本の俳句界をリードしてきた「ホトトギス」を、「花鳥諷詠」「客観写生」という確固たる信念で再興しようとした。

伝統俳句の要としての存在感は抜群で、カリスマ性も有し牽引力があった。加えて、鑑賞能力に優れ、評価の正確さで多くの俳人を育てた功績は、これからも語り続けられるだろう。

(「たかんな」令和4年9月号転載)


【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。俳人協会会員。日本文藝家協会会員。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。


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