海底に足跡のあるいい天気
『誹風柳多留』
きのうは18時ごろ海に出、いざ泳ごうとしたら家人の同僚に会った。海の近くに住んでいるわけでないのになんでここにいるのと聞くと、わざわざ車で泳ぎに来たという。浜辺はとてつもなく広いのに鉢合わせたのはすごい。すごいけど、ただそれだけのこととして、特に長話するでもなく海に集中する。
波のうごきを見、引いてゆく波を走って追いかけて、高波に乗る。乗ってしまえばもう、浮いているだけで楽しい。
平生「自分は生きている」などとことさら意識することはない。それなのに海に浮かんでいると、生きるということをふっと忘れてしまいそうになる自分を発見する。つまりわたしは日ごろそれをしっかり意識しているのだ。だからこそ、忘れそうになれる。
生きるということを忘れると、ごく自然に人は死に引っぱられてゆく。さいきん思うのは、生に対する執着と重力とはひとかたならぬ関係があるのではないかということだ。人は環境でどうにでも変われる生き物だが、もしも地球の重力が今よりずっと小さかったならば、人は生に執着する術のひとつを失い、ふわっ、ふわっ、ふわっ、ふわっとつぎつぎ死に引っぱられたことだろう。
泳ぎ終わり、体を拭いてから、もういちど海に近づいて砂浜を撮る。波が引くと濡れた砂浜があらわれ、またたくまに乾く。まるで肉体が白骨になるかのように。
海底に足跡のあるいい天気 『誹風柳多留』
(小津夜景)
【執筆者プロフィール】
小津夜景(おづ・やけい)
1973年生まれ。俳人。著書に句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂、2016年)、翻訳と随筆『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』(東京四季出版、2018年)、近刊に『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』(素粒社、2020年)。ブログ「小津夜景日記」
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