背のファスナ一気に割るやちちろ鳴く 村山砂田男【季語=ちちろ鳴く(秋)】


背のファスナ一気に割るやちちろ鳴く

村山砂田男
(『夏炉冬扇』)


 『娼婦ベロニカ』という映画があった。ヒロインのベロニカは、貴族出身のマルコと恋仲であったが、身分の違いにより結婚を諦める。元高級娼婦の母親から手ほどきを受け娼婦となり、マルコの寵愛を受ける道を選択する。娼婦となったベロニカの初仕事の相手は、金払いの良い紳士。若く聡明で美しいベロニカを連れ歩き誇らしげである。部屋に入るとベロニカは甘い言葉を発しながら、優雅な手つきでベッドへと誘う。ところが、自身の纏っているドレスを脱ぎ捨てる場面で、ファスナーが引っかかってスムーズに開かない。新米娼婦の慌てぶりに紳士が微笑むと、ベロニカの緊張もほどけ快楽の一夜を済ませる。紳士は上客となり、物語終盤の魔女裁判では、ヒロインの永遠の恋人であるマルコとともにベロニカを擁護する。

 女性服のファスナーは、結構厄介である。ファスナーを覆うようにフリルが施されているデザインもある。ワンピースによっては、背中ではなく右脇下から腰にかけてファスナーが隠されている場合もある。男性の脱がせる喜びを考慮しないのが最新ファッションだ。

 何のドラマだか小説だか忘れたが、奔放な妹が姉の夫を誘惑しようと、ドレスの背中のファスナーを下ろしてくれるよう頼む場面があった。長い髪を右肩に寄せて匂うような首筋をアピール。不器用な姉婿は、背中に垂れているリボンをファスナーに噛ませてしまい下ろすことができない。妹は密かに舌打ちをする。姉婿もまた、妹の色香に翻弄され、出張先で買ってきた高価なネックレスをプレゼントする。妹はここぞとばかりに「まあ素敵。付けて下さる」と言って、にじり寄る。しっとりと汗ばんだ首筋にネックレスを這わせるが、フックが留められない。妹は再び舌打ちをすることとなる。分かりやすい展開なのだが、恋とはシナリオ通りにはいかないものである。

  背のファスナ一気に割るやちちろ鳴く   村山砂田男

 作者の村山砂田男(むらやま さだお)は、新潟県生まれ。教育者として高等学校の校長まで務める。俳文学者でもあり小林一茶や越後俳人の研究書を残す。俳人としては「萬緑」「さざなみ」の同人、俳誌「すな山」を主宰。当該句は、実体験なのか創作なのかは分からない。

 だが、生活の中ではよくあるワンシーンである。私も、夫と共に結婚式やパーティーに出席し、帰ってきた部屋で「すみません。酔っていて背中のファスナーが下ろせないので手伝って下さい」と言う。最初の頃は、悪戦苦闘して下ろしていたファスナーだが、最近はさーっと下ろしてくれる。時々は、「ウルトラマンのファスナーのよう」と冗談も言う。ドレスを纏った妻は、普段とは違う雰囲気を持っているが、ファスナーを下ろして衣装を脱げば平凡な女に戻る。

 女性のドレスのファスナーをスムーズに下ろせる男性は、プレイボーイである。女性を脱がせることに慣れているのだ。なぜなら、たいていはファスナーに髪の毛が引っかかったり、汗で布地が湿ってからまったりするからだ。スリムなドレスだと、ぎゅうぎゅうに胸を締め付けているので、ファスナーの通りは悪くなる。何回も訓練しないとファスナーを一気に下ろすことはできない。

 背のファスナーを一気に割る技術を持った作者。まどろっこしい恋の駆け引きはせず、容赦なく女性の素肌を剥き出しにさせる。男性のせっかちな行為を女性は、激しく自分を求めるがゆえの情熱のなせる技と受け止める。何の躊躇もなく、ファスナーを下ろせる男性の手練手管な情愛に期待が高まる。外では、蟋蟀が鳴いている。割られた背中の肌に、蟋蟀の冷たい高音が響く。虫の闇に包まれた部屋にて紡がれる男女の営みを予感させる句である。 と、解釈してみたが、〈ちちろ〉が庶民的である。鈴虫ではないのが面白い。相手の女性は、厨房の隅で鳴く〈ちちろ〉と親しい存在なのかもしれない。夫婦間でも、そんな情熱的な夜があっても良いだろう。

篠崎央子


『未踏―高柳克弘句集』は2009年の刊行です ↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

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>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
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>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
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>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
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>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
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>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
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