ビーフストロガノフと言へた爽やかに 守屋明俊【季語=爽やか(秋)】


ビーフストロガノフと言へた爽やかに

守屋明俊


マリトッツォ。ご存知ですか。ローマの伝統的なお菓子で今ブームなんだとか。ラジオ番組で聞いてからほどなくしてオンライン句会でもその名が出て来た。なるほど人気らしい。この間、コンビニで実物にお目にかかりました。私のように初めて知るという人に説明するなら、パンで出来たパックマンのあんぐり開いた口にこれでもかというほど生クリームを詰め込んだお菓子、と言ったら伝わるかしらん。伝わらないか。興味のある方は検索して下さい。見ただけで胸焼けを起こすかもしれないけれど、筆者は責任を持ちません。

ともあれこの“マリトッツォ”を正しく言える自信が皆目ない。発音しようとすると、“マトリョーシカ”とか“マトリックス”とか、既に頭に仕舞い込まれているカタカナ在庫の横槍が入るものだから、つい「マトリッツォ」と言いそうになる。違う!違う!慌てて言い直そうとすると、今度はラジオで聞いた「スーパーマリオの父さんみたいな名前」という余計な情報が邪魔をして、”マリオトッツォ“と口の先まで出かかる。そうこうするうちに、マトリッツォなのか、マリトッツォなのか、はたまたマリオトッツォなのか、すっかり混乱する。ああもうややこしいったら。

そんなことがあったばかりなので、掲句にはことさら親しみが湧く。”ビーフストロガノフ”もまた発話者に挑むような料理名だ。“ガノフ”は如何にもロシア料理らしい力強い響きを持つ。一方、先立つ「ストロ」の部分は子音が立て込み舌が縺れそう。油断すると、「スロトガノフ」などと言いかねない。この難度はマリトッツォの比ではない。

例えばレストランでの会食のシーンを思い浮かべよう。一通りメニューブックを眺めてからおもむろにギャルソンに微笑む。「では僕はビーフストロガノフを」。噛まずに言えた!安堵と共に心の中で小さく快哉を叫ぶ。しかし、それまでの緊張は決して表情に出してなるものか。なにしろ産湯がビーフストロガノフだったものでね、くらいの顔を作ってみせるのだ。

無粋な解釈を加えるならば、この句の場合、「爽やかに」という季語が上五ではなくて座に置かれているところがいい。「言へた」の「た」には切れ字的な役割だけでなく明るい解放感がある。そして、そのまま「サ・ワ・ヤ・カ」と続くア音の高揚が読者を否応なく巻き込む。故に作者の感動を共に出来るのだ。

ね、声に出してみませんか、ビーフストロガノフ、と。そしてマトリッツォと(だから、違うってば!)。

『象潟食堂』 角川書店 2019年より)

太田うさぎ


【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』


【太田うさぎのバックナンバー】

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>>〔55〕秋天に雲一つなき仮病の日      澤田和弥
>>〔54〕紐の束を括るも紐や蚯蚓鳴く      澤好摩
>>〔53〕鴨が来て池が愉快となりしかな    坊城俊樹
>>〔52〕どの絵にも前のめりして秋の人    藤本夕衣
>>〔51〕少女期は何かたべ萩を素通りに    富安風生
>>〔50〕悲鳴にも似たり夜食の食べこぼし  波多野爽波
>>〔49〕指は一粒回してはづす夜の葡萄    上田信治
>>〔48〕鶺鴒がとぶぱつと白ぱつと白     村上鞆彦
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>>〔39〕せんそうのもうもどれない蟬の穴   豊里友行
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>>〔34〕多国籍香水六時六本木        佐川盟子
>>〔33〕吸呑の中の新茶の色なりし       梅田津
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>>〔29〕竹秋や男と女畳拭く         飯島晴子
>>〔28〕鶯や製茶会社のホツチキス      渡邊白泉
>>〔27〕春林をわれ落涙のごとく出る     阿部青鞋
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>>〔24〕飯蛸に昼の花火がぽんぽんと     大野朱香
>>〔23〕復興の遅れの更地春疾風       菊田島椿
>>〔22〕花ミモザ帽子を買ふと言ひ出しぬ  星野麥丘人
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>>〔20〕二ン月や鼻より口に音抜けて     桑原三郎
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>>〔18〕温室の空がきれいに区切らるる    飯田 晴
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>>〔8〕冬の鷺一歩の水輪つくりけり     好井由江
>>〔7〕どんぶりに顔を埋めて暮早し     飯田冬眞
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>>〔5〕新蕎麦や狐狗狸さんを招きては    藤原月彦
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>>〔3〕ワイシャツに付けり蝗の分泌液    茨木和生
>>〔2〕秋蝶の転校生のやうに来し      大牧 広
>>〔1〕長き夜の四人が実にいい手つき    佐山哲郎


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

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