【第55回】
甲府盆地と福田甲子雄
広渡敬雄(「沖」「塔の会」)
甲府盆地は山梨県(旧甲斐の国)の中央部の盆地。東に大菩薩嶺からの小金沢連嶺、西に日本第二、第三の高峰北岳、間ノ岳の白根三山や甲斐駒ヶ岳他南アルプス、北に奥秩父、八ヶ岳、南は御坂山地の頭上に霊峰富士が聳える。盆地には釜無川と笛吹川が流れ、南部で合流し富士川となる。両川に挟まれた流域の中心に甲府市があり、標高は平均285メートルで夏は暑く、冬は寒く、桃・葡萄・桜桃等の果実栽培が盛んである。又水晶の原産地で、磨技術が高く、宝石貴金属製造も盛んである。
武田信玄等武田家関係の遺跡(躑躅ヶ崎館跡、甲斐善光寺、武田神社、要害山城、信玄堤)も多い。飯田蛇笏・龍太の邸宅(山廬)のある旧境川村(現笛吹市)は盆地の南・笛吹川の左岸の甲府盆地を見降ろす丘陵地帯にあり、盆地の北側には「日本五大名峡」の昇仙峡がある。
稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空 福田甲子雄
冷ややかに人住める地の起伏あり 飯田蛇笏
奥白根彼の世の雪をかゞやかす 前田普羅
水澄みて四方に関ある甲斐の国 飯田龍太
幟立つ男の国の甲斐に入る 能村登四郎
袋掛笛吹川の鳴るなべに 滝 春一
今度こそ筒鳥を聞きとめし貌 飯島晴子
草を焼く信玄堤やや下り 斎藤夏風
冬来るぞ冬来るぞとて甲斐の鳶 廣瀬直人
冬雲雀師も通ひたる校舎見ゆ 友岡子郷
猪罠を掛けて小学校の裏 菊田一平
本降りの雨に大根畑かな 菅野孝夫
初明かり甲斐に九筋の古道あり 雨宮更聞
柿吊るす甘きにほひの山廬かな 松尾隆信
餡麵麭のお臍や甲斐の桃日和 小澤 實
雲海に富士の坐したる小春かな(昇仙峡)鈴木直充
大年の風吹く甲州善光寺 井上康明
連山を雲居に冬の桃畑 山田真砂年
家ぬちの日陰日向や年用意 瀧澤和治
〈稲刈つて〉の句は、第三句集『白根山麓』に収録。自註に「稲を刈る頃、空は気が遠くなるまで高く、峰々の新雪が輝きを増す」と記す。「甲斐一国を一気に摑み取った様な大柄の作品で、稲刈りの時期、鳥も夏鳥と冬鳥が交替し、空の色も変化する季節の推移が見事に詠まれている」(村上護)。「空を舞台とする鳥達が入れ代わるとは、そこに住む人のみが詠える大景を感じさせる」(倉橋羊村)等の鑑賞がある。
福田甲子雄は、昭和二年(一九二七)、山梨県飯野村(現南アルプス市)生れ。同二十年満州棉花(株)入社後、入営。帰国した翌年の昭和二十二年飯田蛇笏「雲母」入会、「雲母巨摩野支社」の新鋭として注目され、同三十八(一九六三)年編集部に加わり、廣瀬直人、大井雅人と共に頭角を現し、同四十四年、第5回山廬賞を受賞。「雲母」を代表する俳人として、句集『藁火』『青蟬』『白根山麓』『山の風』『盆地の灯』がある。平成四(一九九二)年「雲母」終刊後は、朋友廣瀬直人主宰の「白露」の同人として「雲母」からの大半の俳人を束ねた。同十六年、第六句集『草虱』で第38回蛇笏賞を受賞したが、胃癌により同十七年(二〇〇五)逝去。享年七十七歳。
句集は、他に『師の掌』。評論集『飯田龍太』、俳句鑑賞『龍太俳句365日』『忘れられない名句』、『人と作品・飯田蛇笏』(共著)等がある。平成二十三年夏、地元南アルプス市で「俳人福田甲子雄×風土」の展示会が開催された。「雲母」出身の俳人では、他に第7回松村蒼石、第15回石原舟月、第43回広瀬直人、第52回友岡子郷が蛇笏賞を受賞している。
「甲子雄俳句には、どこか早春の蓬の匂いがする。それも塩餡を入れた草餅のキッパリとした風味である」(飯田龍太)、「蛇笏の詩的緊張を帯びた傾向と龍太の折り目正しい風土の振幅の大きさが甲子雄俳句の魅力で甲斐の巨匠」(江里昭彦)、「風土をかけがえのない在所として愛し、更に特質を見出してゆく姿勢が一貫しており、言葉を磨き、名工のように狂いのない表現を生み出している」(成田千空)、「五感や精神を潜ってきた風土や人間への思いが通っており、混じりけのない生の風土、生の人間に対面したような感じを抱かせる」(宇多喜代子)、「屹立した広大な空間そのものが訴えかけて来る永劫の寂しさが見事に表現されている」(中岡毅雄)、「昭和の始まりと共に生まれ、その時代の同伴者の灯を消す役目を自覚した男の含羞と決意がある」(今井聖)、「〈ふるさとの土に溶けゆく花曇〉が示す微かな涅槃の心境も、風土に対う直ごころがあればこその一つの到着地点である」(瀧澤和治)、「自然と人間存在をも含む万象そのものの持つ実相への肉迫と言うべきものを表現している」(冨田拓也)等々の評価がある。
いくたびか馬の目覚むる夏野かな
蜂飼の家族をいだく花粉の陽
枯野ゆく葬りの使者は二人連れ
生誕も死も花冷えの寝間ひとつ
ふるさとの土に溶けゆく花曇
早苗たばねる一本の藁つよし
田を植ゑて眠り田植に覚めてゆく
斧一丁寒暮のひかりあてて買ふ
天辺に蔦行きつけず紅葉せり
まだ青き桃の落葉が地を埋む
春雷は空にあそびて地に降りず
桜桃の実を割る雨の降りはじむ
母郷とは枯野にうるむ星のいろ
つぎつぎに子が着き除夜の家になる
牛の眼が人を疑ふ霧の中
北嶽のかがやき増せば一挙に冬
枯茅を刈つてなだめて束ねけり
色変へぬ山廬の松の月日かな
交みたるままに湖越ゆ銀蜻蛉
盆地は灯の海山脈は寒茜
春筍は犀の角ほど曲りをり
玄関に雪掻きのある彼岸かな
落鮎のたどり着きたる月の海
わが額に師の掌おかるる小春かな
戦中、満州への憧れ(大志)で渡満(奉天市)するも帰国後故郷に生きた。甲府盆地でも西側の白根山系から流出した砂礫土の痩せた高台の暮しと自然との融合を志向し、作品も重厚な風土性が横たわる。桜桃の栽培が盛んな土地でもあり、〈桜桃の実を割る雨の降りはじむ〉には、出荷直前の雨で、実が割れ商品価値がなくなる農家の不安を句にしたもので、地味ながら甲子雄俳句の極致の一句であろう。加えて師事した蛇笏、龍太双方の研究にも大いに注力した。
(「青垣」47号加筆再構成)
【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。俳人協会会員。日本文藝家協会会員。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。
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