指は一粒回してはづす夜の葡萄
上田信治
少人数で泊りがけの吟行に出かけたことがあった。今よりももう少し秋が深まっていた頃だ。夕食が済み、いよいよ部屋に集まっての句会。テーブルにお酒やおつまみ、お菓子を広げたところで、仲間の一人が持参したシャインマスカットを持ち出した。見目麗しく美味なる葡萄の王様にわーお!と一同から歓喜の声が上がる。大きな房からいそいそと一粒二粒ほど頂き、隣の人へ回す。口中に満ちる幸せを感じながら句会は進みやがてお開きとなった。その夜更けのことだ。一風呂浴びて部屋に戻ると、同室の数名が小声ながら興奮した様子で喋っている。聞けば、句会中、某さんがシャインマスカットを自分の前に置いたままあらかた一人でムシャムシャ食べてしまったのだという。皆への遠慮や気遣いもないなんて一体全体どういう神経?という訳だ。たしかに私も最初に慎み深く頂いたきりだった。卒然と悔しさが湧き、燃え立つ会話に更に薪を投じたのだった。浅ましいというなかれ。イイ大人が分別をなくすほどに葡萄の王様は美味しくて高いという罪を背負っているのだ。
指は一粒回してはづす夜の葡萄
シャインマスカットかどうかは分からないがこの葡萄もまた王族系。「回してはづす」のは太い軸に大粒の実がしっかりついているからだ。ハイクラスの葡萄の証です。私が食べなれている葡萄などは触れるそばからハラハラ実が落ちてしまう。
それはともかく、この句が特異な感じを与えるのは主語が指だからだ。確かに「回してはづす」という運動をするのは指に違いない。けれど、“葡萄の実を房から外す”といったらふつう考えられる主語は「私」でしょう。私の意志が指を動かすのだから。でも、この句の場合、自分から切り離されて指があり、その指のすることを他人ごととして眺めているようだ。指が一粒の実を選び、房の中に分け入り実を捩じり取る。一連の行為が慎重に具体的且つ客観的に描かれているのに、現実味がどこか希薄。それは「私」を消し去っているからなのだろうか。一粒ぶんの欠落を抱えた葡萄の房が傍らで夜のように輝いている。
尚、「回してはづす」を実証するため、身銭を切ってシャインマスカットを購入したことを付け加えておきます。ブチっと引くようにして取ることも出来ますが、掲句のように捩じりながらの方が静かにきれいに取れました。それと、実が大きいので数粒で満足満腹。あんな立派な房だったのを一人であらかた食べてしまった某さん、いくら何でも食べ過ぎ。
(『リボン』 邑書林 2017年より)
(太田うさぎ)
【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』。
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