【番外ー1】
網走と臼田亞浪
広渡敬雄(「沖」「塔の会」)
網走は、北海道の北東部のオホーツク沿岸の北見平野の 東部を占め、モヨロ人やアイヌ人が居住していたが(網走郷土博物館、北方民族博物館に詳しい)、江戸時代初期に和人が来住し、明治時代中期に開拓が始まった。漁業や農作・酪農に加え、観光地の小清水原生花園、ラムサール条約湿地・濤沸湖や珊瑚草の能取湖も名高い。網走刑務所を移転修復した「博物館網走監獄」、厳冬期には流氷遊覧船も賑わい、「流氷の天使」と言われるクリオネも美しい。
今日も暮るる吹雪の底の大日輪 臼田亞浪
流氷の沖に古りたる沖ありき 齋藤 玄
流氷群なりや白鳥群なりや 鷹羽狩行
氷原に鷲来て吾の生身欲る 津田清子
濤沸湖夏野に沿いて横たはる 清崎敏郎
小清水や雹に身を伏せ時を待ち 守屋明俊
人群るるほどなる秋思天都山 深谷雄大
凍裂の深きひとすぢ月白し 広渡敬雄
尾白鷲海風に胸さらすなり 井上弘美
獄舎出て梅の白さが眼に残る 北 光星
クリオネを掬ひ遅春の汐雫 陽 美保子
〈大日輪〉の句は、大正13(1924)年1月、北海道四週間吟杖の折、網走での作。他に〈皆あたれ炉の火がどんと燃ゆるぞよ 倶知安〉〈暮れゆくや寒濤たたむ空の聲 斜里〉〈顔寄せて馬が暮れをり枯れ柏 日高・門別〉の句がある。昭和32(1957)年、低山ながらオホーツク海を含む網走一帯の全容、知床、阿寒、大雪の山々が望める当地の国名勝の天都山(207メートル)に、句碑が建立された。
「吹雪に閉じ込められた大空の果てを金色にぼかして日が落ちてゆく。今日一日、諸々の営みに大慈の光を投げた大日輪は、明日の日を恵む諸々の光を内に包んで落ちてゆく。ああ自然と人とに恵まれた今日も恙なく暮れる。私は胸が一杯になった」と自註にあり、網走湖の上の地吹雪の中の落日を勇壮に詠った句である。
「亜浪俳句の真髄と言える代表句、吹雪の底にあっても消えない希望の光を感じる」(加藤哲也)、「上五と下五の字余りと破調が吹雪の激しさを感じさせる」(大呂俳句会)、「凍結した網走湖の吹雪く湖上の落日をじっと見つめ、大きく頷いてペンを走らせた。あの光影に感激されたのだろう」(門弟竹田凍光)等々の鑑賞がある。
臼田亞浪は、明治12(1879)年、長野県小諸町新町生まれ。本名卯一郎。小諸義塾、明治法律学校等を経て、苦学多年ののち法政大学を卒業し、新聞社に勤務する。学生時代から俳句に関心があり、正岡子規、高浜虚子から指導を受けたこともあったが、就職後は俳句から遠ざかっていた。35歳の大正3(1914)年信州の渋温泉で久し振りに虚子と会い、本格的に俳壇に立つ意志を固め、大須賀乙字と石楠社を設立する。翌年乙字の援助で俳誌「石楠」を創刊し、俳句に後半生を託すことを決意する。
俳壇の革正を念とし軋轢も辞せず、「ホトトギス」「海紅」(河東碧梧桐)更に乙字とも疎遠となるも、大正9(1920)年評論「自然愛と人間句」で「苦悩と自然愛との触れ合う刹那にこそ芸術境は展け、力に満ちた命の俳句=「まこと」の俳句が生まれる」と自身の俳句観を確立する。昭和十年頃は門弟三千名超の一大結社となり、全国各地を精力的に廻り、体調が万全でない中、句作、評論にも注力した。大野林火、篠原梵、栗生純夫、西垣脩、川島彷徨子、太田鴻村、冨田木歩等も育成し、昭和26(1951)年11月11日、72歳で逝去。墓は中野の宝仙寺にある。
句集は、『亞浪句鈔』(大正14年)、『旅人』(昭和12年)、『白道』(昭和21年)、『定本亞浪句集』(昭和24年)、逝去後の『臼田亞浪全句集』、評論集『純粋俳句の鑑賞』『道としての俳句』『俳句を求むる心』等がある。
「素地は寒冷地小諸、火を噴く浅間山を常に仰ぐふるさとの山野に負うところが多い自然詩人」(大野林火)、「生活上は俳句の専門家でありながら、亞浪の本質は、専門家でない。マイスター(親方)でなく永遠の徒弟である。作家として修業時代と遍歴時代を死ぬ迄続けた」(篠原梵)、「虚子とも碧梧桐の新興俳句の流れにも与せず、近代俳句史的には松根東洋城、青木月斗らと第三の中間の領域、中庸の道を確立した」(山下一海)、「現代俳句の先駆者として、人間探求派や根源俳句の先駆的役割を果たし、加えて戦後俳壇史を支える多様な人材を輩出し続け、戦後は俳壇総合誌を構想していた等の業績は忘れてはならない」(加藤哲也)、「現在の俳壇で亞浪の存在感は薄い。まことを通じて超絶我を求め、人間の完成を求める立場は些か煙たいのであろうか」(小島健)、「自然礼賛を唱え、季題趣味の発想を排して現実の自然を実感的に把握することを目指した」(竹内睦夫)、「最晩年の〈白れむの的礫と我が朝は来ぬ〉等、「白」を基調とした佳句が多く、亜浪という俳人の澄み透った詩心の根底を象っていたのは信州の風土性である」(冨田拓也)等の評がある。
氷挽く音こきこきと杉間かな
盆の月山のぼる灯の一つ見ゆ
鵯のそれきり鳴かず雪の暮
木曽路ゆく我れも旅人散る木の葉
木より木に通へる風の春浅き
浅間ゆ富士へ春暁の流れ雲
妻も子もはや寝て山の銀河冴ゆ
霧よ包め包めひとりは淋しいぞ
子が居ねば一日寒き畳なり
郭公や何處までゆかば人に逢はむ
火鉢見つめてをれば夜の影うごくなり
青田貫く一本の道月照らす
夕凪や濱蜻蛉につつまれて(愛知県渥美町・句碑第一号)
漕ぎ出でて遠き心や虫の聲
竹山の夜のひしめきや天の川
夜の町のとある暗がりきりぎりす
雪散るや千曲の川音立ち来り (小諸)
ふるさとは山路がかりに秋の暮 (小諸)
山蛙けけらけけらと夜が移る (鳳来寺)
草原や夜々に濃くなる天の川
世に遠く浪の音する深雪かな
日あたつて来ぬ綿入の膝の上
駿河野や大きな富士が麦の上
牡丹見てをり天日のくらくなる
はくれむや銀糸の雨のをしみなく
多くの俳人を輩出し、先見的に「ホトトギス」以外の方向性を意識した等画期的ではあったが、俳壇的にはやや不遇の感がある。だが、現在林火の系譜の大串章主宰の「百鳥」は俳壇の有力結社であり、大野林火、松崎鉄之介、大串章は俳人協会の会長の要職を勤め、その魂は脈々と受け継がれている。子供が無く若くして逝った妹の幼児を養女として愛情豊かに育て、家庭的にも暖かい俳人であった。
(書き下ろし)
【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。俳人協会会員。日本文藝家協会会員。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。
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