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あまり寒く笑へば妻もわらふなり 石川桂郎【季語=寒し(冬)】


あまり寒く笑へば妻もわらふなり)

石川桂郎

 笑うことと泣くこと。スイッチは反対側についているが体の中で起きている現象は同じだと思う。

 高校時代のある日の放課後、ふとした折に笑いが止らなくなった。もう何が面白いのかわからなくなっているのに笑いが止らない。感情の箍が外れ、涙を流すというレベルを超えて嗚咽になっていた。

 大学4年のある時、この公演を最後に引退という日の打ち上げで喉の周辺がぐわんぐわんになるほど泣いてしまい、泣くということを越えた謎の状態になった。そのぐわんぐわんは最終的には笑いに変わった。嗚咽しているという認識なのに出てくるものは笑いなのである。感情は、極めると交差する。

 日常生活では、真偽を問わなければ笑うことは比較的簡単にできる。口角を上げれば笑顔になるし、大きな声で「あはは」といえば笑いらしくなる。作り笑いは形だけだから簡単だが涙を流すことは難しい。演技においては逆で、笑うことが一番難しいらしい。偏見かも知れないが、本当に面白そうに笑っている演技に出会えることは少ない。泣くのは、涙さえ流すことができればそれでクリアーの場合が多い。

  あまり寒く笑へば妻もわらふなり

 整体院で施術を受けている時、隣の患者さんがぎっくり腰になった時痛すぎて笑ってしまった、と話していた。極端な痛みや苦しみに直面した時、ふと冷静になるとそんな自分を笑ってしまう瞬間が訪れることは確かにある。

 掲句は1947年(昭和22年)の作。「一片の炭無し」という前書があり、貧しい暮しの中で詠まれた一句である。前後には〈風花に顔むけて銭足らずけり〉〈脂肪つ気十日も絶やし雪の梅〉(脂肪…ルビ:あぶら)といった句が並ぶ。現代の感覚で「お金がない」と苦笑いするようなものではなく、極寒に打ち震えるなかで生まれた究極の防衛反応なのである。夫が「笑へば」妻も「わらふ」。「笑」をめぐる仮名遣いの妙により夫は笑顔、妻は声をだして笑っているように感じられる。「笑」という字は笑顔の形、「わらふ」は音声が波及していく形だ。

 寄席に行くとよく芸人が「楽しいから笑うのではない。笑うから楽しいのだ」と語っているが、これはアメリカの哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームズの言葉である。

筆者は苦しい時は嘘でもいから顔だけでも笑うようにしている。笑顔が無理なら口角を上げるだけでも心は前を向いてくれる。前向きスイッチは人間の体のあちこちに内蔵されているのだ。

『含羞』(1956年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【南うみをさんの『石川桂郎の百句』(ふらんす堂、2022年)もオススメ ↓】

【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



【吉田林檎のバックナンバー】

>>〔34〕冬ざれや父の時計を巻き戻し   井越芳子
>>〔33〕皹といふいたさうな言葉かな   富安風生
>>〔32〕虚仮の世に虚仮のかほ寄せ初句会  飴山實
>>〔31〕初島へ大つごもりの水脈を引く   星野椿
>>〔30〕禁断の木の実もつるす聖樹かな モーレンカンプふゆこ
>>〔29〕時雨るるや新幹線の長きかほ  津川絵理子
>>〔28〕冬ざれや石それぞれの面構へ   若井新一
>>〔27〕影ひとつくださいといふ雪女  恩田侑布子
>>〔26〕受賞者の一人マスクを外さざる  鶴岡加苗
>>〔25〕冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ  川崎展宏
>>〔24〕伊太利の毛布と聞けば寝つかれず 星野高士
>>〔23〕菊人形たましひのなき匂かな   渡辺水巴
>>〔22〕つぶやきの身に還りくる夜寒かな 須賀一惠
>>〔21〕ヨコハマへリバプールから渡り鳥 上野犀行
>>〔20〕遅れ着く小さな駅や天の川    髙田正子
>>〔19〕秋淋し人の声音のサキソホン    杉本零
>>〔18〕颱風の去つて玄界灘の月   中村吉右衛門
>>〔17〕秋灯の街忘るまじ忘るらむ    髙柳克弘
>>〔16〕寝そべつてゐる分高し秋の空   若杉朋哉
>>〔15〕一燈を消し名月に対しけり      林翔
>>〔14〕向いてゐる方へは飛べぬばつたかな 抜井諒一
>>〔13〕膝枕ちと汗ばみし残暑かな     桂米朝
>>〔12〕山頂に流星触れたのだろうか  清家由香里
>>〔11〕秋草のはかなかるべき名を知らず 相生垣瓜人

>>〔10〕卓に組む十指もの言ふ夜の秋   岡本眸
>>〔9〕なく声の大いなるかな汗疹の児  高濱虚子
>>〔8〕瑠璃蜥蜴紫電一閃盧舎那仏    堀本裕樹
>>〔7〕してみむとてするなり我も日傘さす 種谷良二
>>〔6〕香水の一滴づつにかくも減る  山口波津女
>>〔5〕もち古りし夫婦の箸や冷奴  久保田万太郎
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎     神野紗希
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる  岸本葉子
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな    蜂谷一人


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