手に負へぬ萩の乱れとなりしかな 安住敦【季語=萩(秋)】


手に負へぬ萩の乱れとなりしかな

安住敦
(『午前午後』)


 萩は、河原に生える面倒な草木であった。魚釣りの際には、萩の無数の枝をなぎ倒して釣場へと向かう。ところが、秋になるとたわわな紅を滴らせる。母を喜ばせるために手折って持ち帰った。華道を学んでいる母は、笠間焼の壺に萩の花を活けた。縦横無尽な萩の枝は、空白美を得て月に照らされる。野に生える花なのだが、美しき植物という認識が植えつけられた。

 大学時代『万葉集』を学び、萩が神の化身である鹿を迎える巫女のような存在であることを知った。『万葉集』の聖地である奈良は、秋になると萩が咲き乱れ、古刹の参道を埋めつくす。道を確保するために括られた萩は、括られるとさらに暴れ出して、淫らな赤い枝を伸ばす。本来、野に生える萩は、奔放なのだが純情なイメージがある。野育ちであるがゆえの野性的で激しい本性には不似合いな素朴で愛らしい小さな花弁を開く。壺に活けられると洗練された別の顔を見せる。憧れる花であった。

 社会人になった頃、都会暮らしにも慣れて、古き都の寺社を歩きまわった。恋に疲れ都会に疲れ、古都を歩く女は絵になる景色だが、孤独に酔って詩を詠む女でしかなかった。観光客に媚びるような枝を垂らす萩の花が疎ましく感じたのを覚えている。どこまでも野性的に生きようとする萩、それを売りにして萩を育てる寺。田舎から集めた遊女が遣り手婆(やりてばば)の言うことを聞かず、自由に恋をしているように見えた。商売のための恋は、いつしか自己欲求を満たす乱れ萩となる。恋に溺れた姿態をさらけ出す萩は、嫌いな花になった。それは、きっと恋の醜さを識ってしまったからだ。

 日本人の男は、『源氏物語』の光の君のように、男を識らない女を育て、自分色に染めたいという願望がある。紫の上は男の願望をそのままに生きることになる。ところが現実ではそうはいかないのだろう。谷崎潤一郎の『痴人の愛』では、主人公の河合譲治が理想的な妻として育てようとし15歳のカフェーの女給ナオミを引き取る。譲治の手ほどきにより性に目覚めたナオミは、取り巻きの男たちを意のままに操り暴走する。譲治もまた、ナオミの虜になり翻弄される。

 立原正秋の『春の鐘』では、美術商の妻が壺ばかり愛でている夫に欲求不満が溜まり浮気をしてしまう。妻の浮気を知った夫は妻子を捨てて、美意識を同じくする若き女と奈良の郊外にて密かに生きる道を選ぼうとする。嫉妬に狂った妻は、愛の巣を訪れ包丁を振りかざす。お嬢様育ちで我が儘な妻を愛し切れず狂気に走らせてしまった夫の自責の念を語り小説は終わる。奈良に響く鐘は、妻との別れか愛人との別れか分からないまま恋の終焉を告げる。

   手に負へぬ萩の乱れとなりしかな   安住敦 

 萩の花は美しいけれども奔放で、欲望のままに生きる女のようだ。野育ちの萩を庭に植えて古歌の世界を体現しようとする古寺は、無邪気で純情な女を調教しようとする男に似ている。純情な女ほど手に負えないものはないのだ。

 三軒茶屋の駅近くに小さなスナックがあった。ちょっとしたご縁で仲良くなったスマさんという女性がその店で働いていた。二十五歳の頃までは女優を目指していたというスマさんは、優しい顔立ちの美人でふとした仕草にも品があった。女優を諦めたのは結婚したから。離婚したのは好きな人ができたから。スナックで働いているのは、好きになった人に貢ぎすぎたから。とても正直な女性である。酔うと関西弁になるのは、母親が京都出身だからと言っていたが、酔ったふりとのこと。スマさんは、お酒が強かった。スナックでは、当然ながら口説かれることが多いので、しつこいお客様には、酔ったふりで対応するらしい。しかも関西弁になったスマさんは、言うことが辛辣でお客様も「口説いて悪かったよ」と帰るらしい。さすが元女優。

 芸能人も立ち寄ることのあるスナックとのことだったが、私は会ったことがない。だが、遊びに行く度に顔を合わせるダンディーなオジサマがいた。スマさんの話によれば、資産家のご子息でバツイチ独身。何度か、仕事の終わったスマさんとダンディーさんと焼肉を食べに行ったことがある。ダジャレや下ネタが大好きなダンディーさんは、正真正銘の酔っ払いである私と大いに盛り上がる。最後は、スマさんが冷めた関西弁でいなしてダンディーさんを送ってゆく。ダンディーさんがスマさんに惚れていたことも、スマさんが迷っていたことも知っていた。だから私も道化師のようにはしゃいだ。

 そんな交流が数年続いたある年の名月の頃、ダンディーさんは、資産家の令嬢と婚約をする。スナックでは、婚約祝いとして何本ものシャンパンが振る舞われた。婚約者がどのような人なのかも全く分からないまま、朝までドンチャン騒ぎをした。スマさんは、酔ったふりをしていたが冷静であった。数日後、定休日のスマさんと飲みに行った。連れて行かれたバーは、ダンディーさんとの思い出の店であったらしい。封を開けていないキープボトルがあり、一緒に飲み干して欲しいと言われる。きっとダンディーさんがスマさん名義にして贈ったボトルだったのだろう。私が酔う前から関西弁になったスマさんは、ほぼ一人でボトルを空け、最後はカラオケで大熱唱。酔い遅れた私は、スマさんを送ってゆき、部屋でも大熱唱。スマさんの綺麗な部屋のベッドで、「ダンディーさんのこと好きだったの」と聞くと、「付き合ってたわよ」と言う。「捨てられるの分かってて付き合ってたから別にどうでも良いんだけど」とも。

 スマさんは、実は私よりも5歳ほど年上。酔っ払いの私はいつも叱られていた。その後、スマさんは、スナックを辞める。昼間の仕事をするようになってからは、酒が弱くなったのか、気が抜けたのか、飲みに行くといつも酔いつぶれる。酔っ払いの私が言うのも何だが、本当に手に負えない。

 飲み明かした霧雨の朝、酔い覚ましに緑道を歩いた。萩の花が足元にまとわりつく。スマさんは言った。「男達はみんな私のことを、自分に尽くしてくれる聡明な女だと思って口説いてきたのよ。好かれたくてそんな女を演じていたのかもしれない。でも私の荒れ狂う本性を知り、みんな去っていった。あの人以外は」。ダンディーさんのこと本当に好きだったんだね。萩に例えるには申し訳ないほど美しいスマさんだが、萩のような激しさと素朴さを持った女性である。萩は再び憧れる花となった。

篠崎央子


【句集『午前午後』は1972年の刊行 ↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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