未生以前の石笛までも刎ねる
小野初江
掲句との出会いはおよそ二十年前―小野初江と私が参画する俳句会「LOTUS」の創設期にさかのぼる。当時、都内某所にて人知れず「豈」と「未定」のメンバー数名が集い、約一年ほど試験的な定例句会が行われた時期があった。「豈」「未定」はともに髙柳重信の影響下に端を発した俳誌だが、創刊当初の前衛精神が年を経るごとに薄れてゆき、長年の〝温室状態〟に不満を抱く者が少なくなかった。先の定例句会は、そうした両誌へ見切りをつけた心ある俳句作家たちがあらたな研鑽と自立的創作の場を起ち上げんと地下活動よろしくスタートさせたものである。それは言わば前LOTUS期といったところで、この時、私はまだその中になく、当時属していた「海程」の句風を超えていかに自身のあらたな俳句を確立するかを思いあぐねていた。そうした中、元「未定」同人にして先の句会メンバーであった俳友の故・森久(流ひさし)に「面白い句会があるから来ないか」と声をかけられ、いきなりの参加は気が引けるのでまずは句会の様子を聞かせてほしいと新宿のカフェで待ち合わせたのである。席に着くなり、先頃行われた定例句会の状況報告と共にそこに出句されたいくつかの作品が森の口端から連発されたのだが、大方が五七五定型だった中にひとつだけ奇妙にして不穏なリズムの句があった。「ミショウイゼンノイシブエマデモハネル」―森の錆びた声音で呟かれたそれを心中に反芻しながらやや間を置いて「それ、面白いですね」と返すと、「そうだろ。小野さんの句なんだよ」と句会の清記表を差し出した。それを見て、私は強く打ちのめされた。しかも三度。実は先の森の音読ですでに一度目を食らっていたのだが、その時、私は「ハネル」を「跳ねる」と解し、それで十分に味わい深い作品だと思っていたのである。はるか古代の原始共同体、そこでの知られざる祭祀のさなか、渦巻く炎を囲んで踊り狂う人々やうねる歌声、そして「石笛」をはじめとするプリミティヴな楽器たちまでもが激しく跳ねまわる―そのような生々しい土着と霊性の雰囲気がよろこびと共に立ちあがる躍動感に満ちたヴィジョンを想起していたところへ、それらを荒々しく薙ぎ払うように「刎ねる」の文字が眼中を掠めたとき、突如、「業」という観念が巨石のごとく重くのしかかり、情念の刃が脳裏を一閃したかと思われた瞬間、古代精神の鮮血が心中つめたく飛び散ったのだった。その不可視の血のしたたり、石笛の無残な姿に重なる父祖ら骨肉のほの暗い表情、なにか鋭利なものが素早く過ぎ去った後の残滓のようなきらめきとヒリつくような空気感、それらが混然と襲い掛かる二度目の衝撃。そして、三度目は「未生以前の石笛までも刎ねる」という恐るべき作品を小野初江が書いたという全き事実である。小野との実際の出会いは「未生以前」句よりさらに数年前―当時、小野は「未定」に属しており、そこでの句会で少しく顔を合わせ、「灰いろは海を四角と思うなり」「花降る日宙へ梯子をかけましょう」などの作品から高齢の割に(失礼!)清新な感覚の持ち主とのみ認識していた(晩学の俳徒である小野は、その時、古希に近い年齢であった)。そして、キャラクターの色濃い作家がひしめく「未定」にあって、穏やかで控えめな人柄の小野はあまり表に立つタイプではなかったのである。そうした温和で静謐なイメージが、数年後「未生以前」句によってかくも痛快に突き崩されようとは。とまれ、「未生以前の石笛までも刎ねる」の激烈なインパクトはその後も長く尾を引き、のちに某俳誌による「いい俳句」アンケートなるものに秀句参考例として挙げたほどである。
小野の俳句遍歴は、還暦を越えてからの地元の句会への参加を皮切りに伝統色の強い「山河」から前衛派の「未定」そして「LOTUS」へと続くのだが、「山河」「未定」の在籍期間は一年そして数年といずれも長いものではない。ここで特筆すべきは、「山河」にいた小野を「未定」へと誘ったのが、やはり当時「山河」同人にして「未定」の主要俳人でもあった豊口陽子だということである。豊口は、小野よりもひとまわり年若だが、この時すでに『花象』『睡蓮宮』という句集を有し、俳句作家としての地位と基盤と固め、周囲からも作・論におけるその実力を高く認められていた。そうした豊口を知るものならば、いくら人生の先輩とはいえおいそれと初学の俳徒に「未定」参加を呼びかけるはずがないことは予想されよう。豊口の慧眼は、しかし、小野の中に秘められた奥深い〈詩〉の地力―ありきたりな気やすめの作品は書くまいという剛毅な気構えと、それを後押しする十分な文学体験、そして激動の昭和期を根底に鍛えられた豊かな人生観―をしかと見抜いていたのである。そうした小野の句業が言外に示唆するのは、詩の道は、年齢や性差、キャリア、名の有無を越えたところにこそ見据えなければならないという自他への厳しい姿勢である。己の長く峻厳な詩の道のりを称して小野は言う―「俳」よりの究極の声を訊く旅、と。卒寿を越えて今なお矍鑠と我が詩道を歩む小野の作品を史的に挙げて擱筆する。
葛の根や西に海溝立ちあがり
臍の緒をのぼる夜汽車の音ならん
嘶けば天より降る一瀑布
三本鳥居海の向うを野火奔り
陵や馬具一切は雲にして
一献を万死としたり花垣外
展翅板蝶の悲曲の密やかに
蓮池の蓮のいみじき蓮力
(九堂夜想)
【執筆者プロフィール】
九堂夜想(くどう・やそう)
1970年青森県生まれ。「LOTUS」編集人。句集『アラベスク』(六花書林)。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【2022年4月の火曜日☆九堂夜想のバックナンバー】
>>〔1〕回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア 豊口陽子
【2022年4月の水曜日☆大西朋のバックナンバー】
>>〔1〕大利根にほどけそめたる春の雲 安東次男
【2022年3月の火曜日☆松尾清隆のバックナンバー】
>>〔1〕死はいやぞ其きさらぎの二日灸 正岡子規
>>〔2〕菜の花やはつとあかるき町はつれ 正岡子規
>>〔3〕春や昔十五万石の城下哉 正岡子規
>>〔4〕蛤の吐いたやうなる港かな 正岡子規
>>〔5〕おとつさんこんなに花がちつてるよ 正岡子規
【2022年3月の水曜日☆藤本智子のバックナンバー】
>>〔1〕蝌蚪乱れ一大交響楽おこる 野見山朱鳥
>>〔2〕廃墟春日首なきイエス胴なき使徒 野見山朱鳥
>>〔3〕春天の塔上翼なき人等 野見山朱鳥
>>〔4〕春星や言葉の棘はぬけがたし 野見山朱鳥
>>〔5〕春愁は人なき都会魚なき海 野見山朱鳥
【2022年2月の火曜日☆永山智郎のバックナンバー】
>>〔1〕年玉受く何も握れぬ手でありしが 髙柳克弘
>>〔2〕復讐の馬乗りの僕嗤っていた 福田若之
>>〔3〕片蔭の死角から攻め落としけり 兒玉鈴音
>>〔4〕おそろしき一直線の彼方かな 畠山弘
【2022年2月の水曜日☆内村恭子のバックナンバー】
>>〔1〕琅玕や一月沼の横たはり 石田波郷
>>〔2〕ミシン台並びやすめり針供養 石田波郷
>>〔3〕ひざにゐて猫涅槃図に間に合はず 有馬朗人
>>〔4〕仕る手に笛もなし古雛 松本たかし
【2022年1月の火曜日☆菅敦のバックナンバー】
>>〔1〕賀の客の若きあぐらはよかりけり 能村登四郎
>>〔2〕血を血で洗ふ絨毯の吸へる血は 中原道夫
>>〔3〕鉄瓶の音こそ佳けれ雪催 潮田幸司
>>〔4〕嗚呼これは温室独特の匂ひ 田口武
【2022年1月の水曜日☆吉田林檎のバックナンバー】
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな 蜂谷一人
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる 岸本葉子
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎 神野紗希
【2021年12月の火曜日☆小滝肇のバックナンバー】
>>〔1〕柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
>>〔2〕内装がしばらく見えて昼の火事 岡野泰輔
>>〔3〕なだらかな坂数へ日のとある日の 太田うさぎ
>>〔4〕共にゐてさみしき獣初しぐれ 中町とおと
【2021年12月の水曜日☆川原風人のバックナンバー】
>>〔1〕綿入が似合う淋しいけど似合う 大庭紫逢
>>〔2〕枯葉言ふ「最期とは軽いこの音さ」 林翔
>>〔3〕鏡台や猟銃音の湖心より 藺草慶子
>>〔4〕みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど 堀田季何
>>〔5〕ともかくもくはへし煙草懐手 木下夕爾
【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】
>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し 芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ 芭蕉
>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉 芭蕉
>>〔4〕埋火もきゆやなみだの烹る音 芭蕉
>>〔5-1〕蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【前編】
>>〔5-2〕蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【後編】
【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】
>>〔1〕秋灯机の上の幾山河 吉屋信子
>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子
>>〔3〕後輩の女おでんに泣きじゃくる 加藤又三郎
>>〔4〕未婚一生洗ひし足袋の合掌す 寺田京子
【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】
>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊 杉田久女
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>>〔3〕どつさりと菊着せられて切腹す 仙田洋子
>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒 山口青邨
【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】
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>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
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>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな 永田耕衣
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】