回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア 豊口陽子


回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア)

豊口陽子
『藪姫』)


その特異な作風と気高い文学思想に私淑する者が少なくなかったにもかかわらず、安井浩司は終生自身の俳誌を持つことはなかった。その安井に生前(唯一の)弟子として認められたのが豊口陽子である。安井にしてからがそうだが、豊口もおよそ物わかりの良い俳句を書くタイプではない。それは古来より続く人間と言葉の相克―すなわち、詩の修羅を身に染みて知っているからである。

人間は何を求めて詩へ向かうのか。娯楽か慰藉か、または救済か。ともあれ、そうしたヒューマンな志向性が口当たりのよい美辞と機知をまといつつキャッチーに五七五定型へ流し込まれるとき、謂うところの名句誕生と相成るわけだが、その意味で豊口陽子は人心をあたためるような名句を書かなかった。むしろ、毅然とそれを拒否した。仮にめいく(・・・)という(おん)を流用するなら、豊口のそれは、言わば「迷句」であり「冥句」であり「謎句」であり、それゆえの「命句」と称するべきものである。そのしなやかにして豪胆な句の矛先は、読者に対して人間存在の問い直しを、翻って作者に対しては俳句形式の捉え直しを、厳かに迫る―「どこへ帰りたいのか、本人にさえわからぬ脳中の迷路。しだいにその藪の迷路に翻弄されてゆく人間という生きもの。私は、その救われぬ魂を抱きつつ今生をさまよわねばならぬ人たちこそ藪姫ではないかと思うに至ったのである。思えば今生を生きるとは、藪姫を生きるということではないだろうか」(『藪姫』あとがきより)―

超越性をはらむ薫り高いミスティシズム―豊口俳句の特色であるそれは、おもにアジアを始めとするオリエント世界に材を取る彼女の本流(「睡蓮や陵ひとつ吸い了わる」「さくら樹下かごめかごめと韓のいくさ」「胎内に豊葦原がそよいでいるわ」「くもの囲をめぐるおんがく 閻浮提」「鳥髪のかの巫の六足歩行」など)ではない掲句にも如実にあらわれていよう。「回廊をのむ/回廊のアヴェ・マリア」あるいは「回廊をのむ回廊の/アヴェ・マリア」と少なくとも二通りの読みが可能だが、いずれにしても「アヴェ・マリア」をモティーフとしながら宗教的立ち位置から遠く、その不気味なたたみ掛けからはおよそ何ごとも救う/救われる気がしない。むしろ、豊口の狙いは…否、作品自体の秘めたる詩的悪意とは、美しい祈りと旋律と共に実作者である豊口もろとも読み手をドロステ効果の魔であるエッシャー描くところの〈無限彷徨〉へと引きずり込むことであるかのようだ。斯くの如くに―回廊をのむ回廊をのむ回廊をのアヴェ・マリアむ回をのむ回廊をのむ回廊ヴェ・マリ廊をのむ回廊アヴェ・マのむ回廊をのむマリアをのむ回をリアむ回廊ア…

(九堂夜想)


【執筆者プロフィール】
九堂夜想(くどう・やそう)
1970年青森県生まれ。「LOTUS」編集人。句集『アラベスク』(六花書林)


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



【2022年3月の火曜日☆松尾清隆のバックナンバー】

>>〔1〕死はいやぞ其きさらぎの二日灸   正岡子規
>>〔2〕菜の花やはつとあかるき町はつれ  正岡子規
>>〔3〕春や昔十五万石の城下哉      正岡子規
>>〔4〕蛤の吐いたやうなる港かな     正岡子規
>>〔5〕おとつさんこんなに花がちつてるよ 正岡子規

【2022年3月の水曜日☆藤本智子のバックナンバー】

>>〔1〕蝌蚪乱れ一大交響楽おこる    野見山朱鳥
>>〔2〕廃墟春日首なきイエス胴なき使徒 野見山朱鳥
>>〔3〕春天の塔上翼なき人等      野見山朱鳥
>>〔4〕春星や言葉の棘はぬけがたし   野見山朱鳥
>>〔5〕春愁は人なき都会魚なき海    野見山朱鳥

【2022年2月の火曜日☆永山智郎のバックナンバー】

>>〔1〕年玉受く何も握れぬ手でありしが  髙柳克弘
>>〔2〕復讐の馬乗りの僕嗤っていた    福田若之
>>〔3〕片蔭の死角から攻め落としけり   兒玉鈴音
>>〔4〕おそろしき一直線の彼方かな     畠山弘

【2022年2月の水曜日☆内村恭子のバックナンバー】

>>〔1〕琅玕や一月沼の横たはり      石田波郷
>>〔2〕ミシン台並びやすめり針供養    石田波郷
>>〔3〕ひざにゐて猫涅槃図に間に合はず  有馬朗人
>>〔4〕仕る手に笛もなし古雛      松本たかし

【2022年1月の火曜日☆菅敦のバックナンバー】

>>〔1〕賀の客の若きあぐらはよかりけり 能村登四郎
>>〔2〕血を血で洗ふ絨毯の吸へる血は   中原道夫
>>〔3〕鉄瓶の音こそ佳けれ雪催      潮田幸司
>>〔4〕嗚呼これは温室独特の匂ひ      田口武

【2022年1月の水曜日☆吉田林檎のバックナンバー】

>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな    蜂谷一人
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる  岸本葉子
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎     神野紗希

【2021年12月の火曜日☆小滝肇のバックナンバー】

>>〔1〕柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺    正岡子規
>>〔2〕内装がしばらく見えて昼の火事   岡野泰輔
>>〔3〕なだらかな坂数へ日のとある日の 太田うさぎ
>>〔4〕共にゐてさみしき獣初しぐれ   中町とおと

【2021年12月の水曜日☆川原風人のバックナンバー】

>>〔1〕綿入が似合う淋しいけど似合う    大庭紫逢
>>〔2〕枯葉言ふ「最期とは軽いこの音さ」   林翔
>>〔3〕鏡台や猟銃音の湖心より      藺草慶子
>>〔4〕みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど 堀田季何
>>〔5〕ともかくもくはへし煙草懐手    木下夕爾

【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】

>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し      芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ    芭蕉
>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉      芭蕉
>>〔4〕埋火もきゆやなみだの烹る音      芭蕉
>>〔5-1〕蝶落ちて大音響の結氷期  富沢赤黄男【前編】
>>〔5-2〕蝶落ちて大音響の結氷期  富沢赤黄男【後編】

【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】

>>〔1〕秋灯机の上の幾山河        吉屋信子
>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子
>>〔3〕後輩の女おでんに泣きじゃくる  加藤又三郎
>>〔4〕未婚一生洗ひし足袋の合掌す    寺田京子

【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】

>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊     杉田久女
>>〔2〕鶴の来るために大空あけて待つ  後藤比奈夫
>>〔3〕どつさりと菊着せられて切腹す   仙田洋子
>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒     山口青邨

【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】

>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり   夏目漱石
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな   永田耕衣


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

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