鳴きし亀誰も聞いてはをらざりし 後藤比奈夫【季語=亀鳴く(春)】


鳴きし亀誰も聞いてはをらざりし)

後藤比奈夫

浪人時代、論文模試で「矛盾」という課題が出た。「今」をテーマに書いたら高得点で、テレホンカードをもらったことがある。「今」と言った瞬間に「今」ではなくなるから「今行く」は実現しえず矛盾しているという内容のものだった。当時は良いことを書いたから成績が良かったのだろうと思い込んでいたが、突き詰めて考えると隙だらけの論旨である。きっと文体に点数がついたのだろう。今という言葉には広辞苑によると“過去と未来の境である瞬間”のほか“現在を含んだ、ある時間・期間”という幅のある時間も意味している。後者の意味で使えば「今行く」はありえるのだ。

今という言葉は切実だ。その言葉を聞くと今すぐこの瞬間に、と体が反応してしまう。しかし実際には、特に「今行く」という用例では「い~ま~い~く~」と言っていそうなニュアンスがあり、むしろ今すぐではなさそうである。

「今を大切に」というとここ1、2年をさすように思われる。高校生なら高校生活3年間ととらえる人もいるだろう。一瞬を切り取った今この瞬間と解釈するとスケールが小さくなり、魅力のない表現になる。同じ「今」という言葉なのに文脈や受け手によって幅を持つ。時間は主観的にして曖昧な存在なのだ。

 鳴きし亀誰も聞いてはをらざりし

誰も聞いていなかったのだとすると、その亀が鳴いたことをどのように知ったのか?「をらざりし」だからその時は聞いていなくても録音を聞いて後から知ったのか。ここはやはり作者以外誰も聞いていなかったとして鑑賞したい。「今の(私以外)誰も聞いてなかったの?」という状況はよくあること。むしろ自分だけが聞いていたことを親しい人に愚痴のように自慢しているのだ。この情景、すぐにたどり着く答えではあるが、ここは一周回ることを楽しんでみた。

「亀鳴く」は空想的な季語だが、比奈夫の手にかかると確かな手触りがある。日常の一コマのような語り口が現実的で、それが空想感をかえって強めるのだ。やはり<空間に端居時間に端居かな>の作者。時間に端居したことがある強み(?)である。

比奈夫は筆者にとっては<亀鳴く>の名手なのである。<ふと鳴いたかも亀石といへる亀><白寿まで来て未だ鳴く亀に会はず><亀鳴いたさうな百寿の誕生日>くエイプリルフール亀鳴いてはならぬ>等々。「亀鳴く」という、ぼんやり歩いていても出会うことのない季語を明瞭に把握している。

矛盾について一考するつもりだったがいざ書いてみると言葉の解釈の話になってしまった。俳句を続けている筆者の思考回路としてそこに矛盾はない。

『残日残照』(2010年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


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