恋の句の一つとてなき葛湯かな 岩田由美【季語=葛湯(冬)】


恋の句の一つとてなき葛湯かな

岩田由美
(『春望』)

 子供の頃、手足が冷えて眠れない私に母が葛湯を吹いてくれた。葛湯とは、葛の根から採った澱粉を湯で溶いてとろみを出し、砂糖を加えて甘くした飲み物である。どんなに眠れない夜でも葛湯を飲むと体が温まり、深い眠りに落ちることができた。母の溶く葛湯は、甘い甘い記憶である。

 女の子の間で恋の話をするようになったのは、いつの頃であったか。小学校2年生の時に、よく一緒に遊んでいた少年との仲を冷やかされたのを記憶している。小学校3年生の時には、「私は彼のことが好きだから」と宣言した少女が少年に付きまとうのを妬ましく思った。今にして思えば初恋の少年は、気の合う同志のような存在であった。お互い動植物が好きで、森などで採取した植物や昆虫を図鑑で調べて、栽培したり飼育したりした。

 小学校5年生の秋に修学旅行があった。女子部屋は恋の話で盛り上がる。当然、少年が好きなのかどうか問われる。その時、始めて恋を意識したのかもしれない。「一緒にいると楽しいけど、好きなのかな」と答えた。女の子達は、学級委員の男の子と手が触れたとか野球クラブのエースにタオルを渡したとか、些細な話で大騒ぎした。最後には、話に加わらず寝たふりをしていた優等生女子が起こされて、好きな男の子の名前を無理矢理言わされていた。恋の話に乗ってこない女の子とは、いつの時代にもいるであろう。恋に興味の無さそうな彼女が告げた恋人の名は、1年前に隣県の学校に転校してしまった男の子であった。しかも、文通しているというから驚きである。いったい、いつの間に…。

 中学校時代になると、恋の話が好きな女の子と冷めた目をして恋の話を避ける女の子に分かれる。恋に興味の無さそうな女の子は、自分の世界を持っているようで格好いい。ちょっと憧れた。好きだった少年から避けられるようになった私は、部活に没頭した。一方で、漫画や小説に出てくるキャラクターに惹かれるようになる。この地上には、決して存在しない理想的な男性。読むだけでは飽き足らず、こんな男性と恋をしてみたいと妄想し、浅はかな小説まで書くようになった。後年、読み返すのも恐ろしくて焼却してしまったが、異世界転生の冒険ファンタジー恋愛小説であったと思う。

 どちらかというと、私は恋愛至上主義。恋のためなら命までかけてしまうほど。この世の人はみんな恋をしていると思っていた時代もある。でもそれは、恋の話ができる人のみを無意識に選択し、友人としていただけであった。恋に興味の無い人も世の中には沢山存在する。また、恋はしているが語らない人も多いだろう。恋ばかりして恋の話で盛り上がっている自分が恥ずかしいと思ったこともあった。

 二十代も終わりの頃である。とある合コンで知り合った男性が言った。「貴方は、話しやすい人だから正直に言います。自分は恋が分からない。文学が好きなので小説も沢山読んでいます。なぜ人は恋のために死ぬのでしょうか」。難しい質問である。恋をしたことがない人に、命がけの恋について語る技術を私は持っていない。さらには「どうしたら恋ができるのでしょう」と聞かれ、真剣に悩んでしまった。男性は、美形の歯科医師。合コンでは、モテモテ。密かに交流を持っていることを女友達に知られ嫉まれたぐらいだが、そんな仲ではない。数年後、歯科医師男性は、10歳年上の女性と結婚する。「恋をしたのですね」とメールを送ったら「自分に恋をする彼女を見て恋を学びました。結婚したのは、一緒に暮らしてみたいと思ったからです。恋かどうかは分かりません」との返事。なんとも厄介な男性だが、恋とは何なのかを考えさせてくれた。

  恋の句の一つとてなき葛湯かな   岩田由美

 恋の句を詠みたくて俳句の世界に入った私とは違うクールな句。恋の句は作らないが、恋はしているのだろう。恋の句は表現が甘くなるし、句会でも点が入りにくい。また、恋を詠む際には、決まり切ったキーワードがある。「恋」「君」「逢ふ」「触る」など。そのような恋の言葉を回避して作ろうとすると高い表現力が要求され、出来上がった句は恋とはほど遠い内容になる。そうかと思うと恋の句ではないのに、恋の句と認定されてしまうこともある。恋の句とは、作ろうとして詠むのではなく、恋をしている感情のままに捉えた景色を描写すると名句になるのではないか。もしくは、恋をしている自身の言動を冷静に眼差して、客観的に表現すると多くの共感が得られるのかもしれない。甘い恋の句しか詠まない私が述べるのも可笑しなことなのだが。

 当該句は、〈恋〉という言葉はあるが、恋の狂おしさを詠んではいない。だが〈葛湯〉という、とろけるような甘い飲み物が作者の優しい心情を表している。眠れない夫のために溶いたのだろうか。恋の句ではないのだが愛情を感じさせる句である。

 私の夫は、学生時代も就職してからも飲み会では恋の話をしたことがないという。「女の話をしない堅物」とまで言われたらしい。そのような清廉潔白な夫からしたら、毎週恋の話の連載をしている私は、異常な生き物でしかないのだろう。夫いわく、恋は秘すべきものであり人に話すことではないとのこと。確かにその通りだ。

 作者の岩田由美氏の夫は、俳人の岸本尚毅氏。東京大学在学中に知り合ったと認識している。思想性の高い俳人同士の結婚。恋はしているのだが、詠まなかったのか。本気で恋をしたら詠めないこともあるだろう。本気の恋は、人に相談することもできないのだから。〈好きな人同じ桔梗に立ち止まる 岩田由美〉〈いつの日か椿の好きな人に嫁ぐ 岩田由美〉。これは、恋の句ではないのかもしれない。恋の句の認定は難しい。

篠崎央子


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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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