俳人・広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第61回】 石鎚山と石田波郷


【第61回】
石鎚山と石田波郷

広渡敬雄(「沖」「塔の会」)


石鎚山は、山部赤人が「伊予ノ高嶺」と詠った、西日本最高峰で山岳修行の由緒を持つ。西条市の成就社からの表参道と西日本随一の溪谷・面河渓の土小屋からの裏参道があり、燧灘沿いに讃岐より伊予へ走る予讃線のみならず松山市からも仰ぎ見られる。燧灘には、中世には村上水軍が制圧した島々が浮かび、沿岸には、嘗ての別子銅山精錬所を発祥とする「工都」新居浜、製紙産業の川之江等がある。

新緑の石鎚山

  秋いくとせ石鎚山を見ず母を見ず  石田波郷

  冬の月いよいよ伊予の高根かな   小林一茶

  麦の穂や長鳴き牛も伊予訛     森 澄雄

  かの旅の汽車のごとくに今朝の秋  佐藤文香

  水軍の島に朝顔咲かせ住む     小西昭夫

  石鎚は嶮を斂めし良夜かな    池上浩山人

  天狗岳攀る一列灼け灼けて    日野あや子

  樗咲く石鎚山をいまに見ず     石田あき子

  波郷忌が近し石鎚山近し     藤本美和子

  母の家野分の夜のかく暗き    森賀まり(石鎚山登山口)

  霧さむし深山燕の鋭き谺     富安風生(面河溪)

〈秋いくとせ〉は第七句集『酒中花』に収録。昭和36(1961)年11月、母危篤の報を受けて帰郷の折の句で、母73歳、波郷48歳。この時は、母は小康を得たので、母校の垣生小学校を訪ねたが、後日同校に、句碑が建立された。「母を詠むことが多かった波郷だが、殊に心に響く句である。〈石竹やおん母小さくなりにけり 妹の便り〉〈なみだしてうちむらさきをむくごとし 会はぬ母を思ふは〉〈満天(どうだ)()に隠りし母をいつ見むや 母帰郷〉〈蛍火や疾風のごとき母の脈 母篤し〉〈母の亡き今日暁けて石蕗梅もどき 母死す〉等の母思いの句があり、「「石鎚山を見ず母を見ず」の二つの打消しが、却って双方を恋うる気持ちを強く打ち出す」(星野麥丘人)の鑑賞がある。

石鎚山の波郷句碑

波郷は大正2(1913)年愛媛県の松山市生まれ。旧制松山中学時代から俳句を始め、17歳で水原秋櫻子門下の五十崎古郷に師事し、「馬酔木」に投句。昭和7(1932)年同巻頭を得て単身上京、叙情性、青春性に満ちた都会詠を詠み、百合山羽公、瀧春一、篠田悌二郎、高屋窓秋、石橋辰之助、相生垣瓜人等錚々たる俳人とともに20歳で最年少自選同人となり、窓秋、辰之助と並んで「馬酔木三羽烏」と称された。

健康にも恵まれ、辰之助等とハイキング、スキー等を意欲的に楽しんだ。終生の師横光利一にも目をかけられ、22歳で第一句集『石田波郷句集』を上梓し、同12年、24歳で「鶴」を創刊主宰。同14年「俳句研究」座談会以降、加藤楸邨、中村草田男と共に「人間探求派」と称された。29歳の結婚を機に「馬酔木」を辞した。召集による入隊以後体調を崩したが、終戦早々の同21(1946)年、「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」と宣し「鶴」を復刊すると共に「馬酔木」同人にも復帰。

その後肺を病み、再三の成形手術、清瀬の東京療養所入所により、「療養俳句」の一時代を確立した。万全な体調でないものの、朝日俳壇選者、現代俳句協会更に俳人協会の設立に尽力し、同30年、42歳で『定本石田波郷全句集』により第六回読売文学賞を受賞、俳壇で重きをなした。

紅葉の石鎚山(剣ヶ峰)

昭和44(1969)年には、句集『酒中花』で芸術選奨文部大臣賞を受賞するも、同年11月21日、56歳で逝去し、深大寺に葬られた。〈今生は病む生なりき鳥頭〉、戦後12年間暮らした江東区の砂町文化センターに平成12年、「石田波郷記念館」が開設されている。

句集は16冊あるが、句の重複も多く『石田波郷全句集』には『鶴の眼』『風切』『病鴈』『雨覆』『惜命』『春嵐』『酒中花』『酒中花以後』の八冊が収録され、玄人跣の自身の撮影写真も添えた『江東歳時記』、『清瀬村』の随筆集もある。

長男修大氏著の『わが父波郷』『波郷の肖像』は、父波郷とのほど良い距離感があり、最良の語り手を得た感がする。

長男修大氏は日本経済新聞記者だった

作風は馬酔木調の抒情的青春性の横溢する20歳代前半、加藤楸邨等の影響を受けた「人間探究派(難解俳句)」時代、戦後直後の「焦土俳句」時代、そして40歳からの長い「療養俳句」時代と生涯に大きな変遷がある。特に後半は自身の診療生活の限られた句材を詠んだ私小説風の俳句も多い。終生、「俳句の韻文精神」、又、「豊饒なる自然と剛直なる生活表現」を唱え、「俳句は文学ではない」との俳句の本質を喝破した言葉も残している。

山本健吉は、句集『風切』(昭和18年)で、抒情的新興俳句と訣別し、蕉風「猿蓑」を手本に古典の格と技法とを学び生活に即した人生諷詠としての俳句に開眼したと述べ、「波郷晩年の句境の高さを裏付ける言葉は「自分の言葉で、深く新しく」である」(鈴木しげを)の評もある。

プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ

バスを待ち大路の春をうたがはず

吹きおこる秋風鶴をあゆましむ

冬青き松をいつしんに見るときあり

初蝶やわが三十の袖袂

花ちるや瑞々しきは出羽の国

女来と帯纏き出づる百日紅

葭雀二人にされてゐたりけり

朝顔の紺のかなたの月日かな

雨蛙鶴溜駅降り出すか(軽井沢にて 草軽軽便電気鉄道)

葛咲くや嬬恋村の字いくつ

琅玕や一月沼の横たはり (手賀沼)

霜柱俳句は切字響きけり

萬緑を顧みるべし山毛欅峠

雁やのこるものみな美しき

鳰の岸女いよいよあはれなり

百万の焼けて年逝く小名木川

立春の米こぼれをり葛西橋

はこべらや焦土のいろの雀どち

金雀枝や基督に抱かると思へ

栃咲くやまぬかれ難き女の身

六月の女すわれる荒莚

西日中電車のどこか摑みて居り

霜の墓抱き起こされしとき見たり

桔梗や男も汚れてはならず

たばしるや鵙叫喚す胸形変

綿虫やそこは屍の出てゆく門

雪はしづかにゆたかにはやし屍室

七夕竹惜命の文字隠れなし

泉への道後れゆく安けさよ(軽井沢)

壺焼やいの一番の隅の客 (西銀座卯波)

いつも来る綿虫の頃深大寺

蛍籠われに安心あらしめよ

「いのちの韻律」として愛唱される句も多く、いぶし銀のような、波郷俳句は、俳句史上不朽であろう。

(書き下ろし)


【執筆者プロフィール】
広渡敬雄(ひろわたり・たかお)
1951年福岡県生まれ。句集『遠賀川』『ライカ』(ふらんす堂)『間取図』(角川書店)。『脚注名句シリーズⅡ・5能村登四郎集』(共著)。2012年、年第58回角川俳句賞受賞。2017年、千葉県俳句大賞準賞。「沖」蒼芒集同人。俳人協会会員。日本文藝家協会会員。「塔の会」幹事。著書に『俳句で巡る日本の樹木50選』(本阿弥書店)。


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