兎の目よりもムンクの嫉妬の目
森田智子
(『掌景』)
女性は嫉妬深いと言われているが、男性の嫉妬に比べれば大人しいものだと思う。嫉妬にもいろいろある。恋敵への嫉妬だけでなく、自分よりも才能のある人や裕福な人への嫉妬など。某企業に幹部候補として鳴物入りで入社した男性の話によれば、入社早々に派閥争いに巻き込まれ、大奥以上の嫉妬による嫌がらせを受けたという。権謀術数が渦巻く怖い会社だったとか。また、とある大学の助手をしていた男性は、深夜の研究棟で学長選挙を巡る賄賂の応酬や対抗する教授を陥れるためのハニートラップを目撃したらしい。又聞きの話なので本当のことなのかどうかは分からないが、男性社会恐るべし。
ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクは、「嫉妬」というタイトルの作品を十数枚残した。1895年に描かれたものが有名だ。林檎の木の下で語り合う男女をじっと眼差す髭の男。この髭の男は、ムンクの自画像とも言われている。絵に描かれた裸体の女性を巡り三角関係があったのではないかと推測されている。ムンクの描く無表情の眼差しは、見るものをゾッとさせると同時に強い共感を呼んだ。男性の嫉妬は、どこか陰湿である。それは、恋への嫉妬以上のものが孕んでいるからであろう。
20代半ばの頃である。ふとした経緯で知り合った男性は、自慢話しかしない。いつも口癖のように「俺は人に嫉妬したことがないんだよね。みんな俺に嫉妬するけど、その気持ちが分からない。君が他の男とデートしていても妬いたりできないかも」と言っていた。金にも出世にも女にも興味がない。だから出世できたし女にもモテると言っていた。自慢話を聞くのに疲れて連絡を絶った。ところが、私が別の男性と交際し始めたことを知ると、私を尾行するようになった。尾行を巻くために乗ったタクシーの運転手さんが「お客さん、変な男に付きまとわれているのかい?」と聞く。「まあ、そんなところです」と答える。「実は、僕も恋で悩んでいるんだ」と語り始めた。タクシーの運転手さんは、行きつけのスナックのママと恋仲であった。飲み過ぎたある夜、同じ店で働く女性従業員に言い寄られ関係を持ってしまう。それを知ったママは、店のボトルを全てひっくり返すほどの大乱闘を起こしたという。「嫉妬に狂った女性には、どんな言葉も届かないんだよね。僕もママも従業員女性ももうすぐ60歳。若い貴女からしたら、年増の男女が何をやっているんだって呆れるでしょう。でも嫉妬は、何歳になってもあるんだよ。今、貴女を追いかけている男性は、目には見えない嫉妬で狂っているんだと思う」と言った。尾行を巻くためのタクシーは入り組んだ民家の小道を抜けて、私の友人の働くショットバーの前に着いた。タクシー代が思ったより安かったので「いいのですか」と聞くと「僕も若い頃、女性をしつこく追い回して困らせたことがあるんだ」と答えた。さらには「あ、そうだ。相手の男性に、嫌いになってしまいごめんなさいって伝えたらいいと思うよ」とのアドバイスも。
タクシーの運転手さんの機転で尾行を巻いたつもりが、結局は追いつかれてしまう。藁をも掴む思いでアドバイス通りに叫んだ。「大嫌いになってしまってごめんなさい!!」と。男性は、「最初からそう言えばいいのに」と言って去っていった。それ以来、尾行されることはなくなった。
男性は、今でいうところのストーカーなのだろう。ストーカーになる人は、自尊心が強いという。自分が拒絶されるはずがないとか、追いかければ喜んでくれるはずとか、そんな思い込みがあるらしい。自尊心の強い人は、コンプレックスも強い。コンプレックスからくる嫉妬心を認めることができない。男心が分からない私なりに推測してみた。自慢話は、彼の口説き文句だったのだろう。私に気付かれるように尾行したのは、愛情表現のつもりだったのかもしれない。自分のことを好きに違いないと思っていた女性から「嫌いだ」と言われ、自尊心が傷ついたのだ。だから去って行った。最後の捨て台詞は、自尊心を守るための精一杯の言い訳だ。自尊心と嫉妬心は紙一重である。嫉妬したことがない、嫉妬する気持ちが分からないと言う人に限って、世界が凍るほどの嫉妬をするのだ。私もまた、そんな人間である。追いかけてくれてちょっと嬉しかった。
兎の目よりもムンクの嫉妬の目 森田智子
白兎の目は赤い。愛らしくもあるが、怖い。兎の血走った目よりも怖いのがムンクの描く嫉妬の目である。
作者の森田智子氏は、1938年大阪に生まれ。19歳のときに西東三鬼の主宰する「断崖」に入会。三鬼の晩年の弟子である。33歳の頃、鈴木六林男の主宰誌「花曜」に入会。44歳で現代俳句協会賞受賞。68歳にして「樫」創刊。2020年、82歳で「樫」は終刊となる。尖った表現力は、今も健在だ。
嫉妬という強い感情表現を俳句で詠むのは難しいのだが、兎の赤い目とムンクの描いた嫉妬の目を比較したところが見事である。兎の目が、女性的なのに対し、ムンクの嫉妬の目は男性的である。女性の嫉妬も破壊的だが、男性の嫉妬は、人間の根幹を揺るがすような底知れないものがあるように思うのは、私だけであろうか。
確かに、俳句を詠んでいると、人の句に嫉妬することはある。俳句世界のなかでは、自分の後輩が評価され出世していくこともよくある。俳句の上手な人は、句会の仲間から嫌がらせを受けることもあるだろう。ただ、俳句の世界で受けた嫉妬による嫌がらせは勲章でもあるのだ。落ち込む必要はない。自分もまた、人の句に嫉妬することで伸びてゆけるのだから。
私の母は、女性の社会的地位が低かった頃からのキャリアウーマン。毎日のように、出世してゆく男性同僚を嫉み、若い後輩を嫉み、さらには友人女性の子供が私よりも偏差値の高い学校に合格したことも嫉んだ。そうかと思うと、父よりも給料が高くなったと喜び、温泉宿で大宴会を開く。75歳まで働き続け高い地位を得た母は、体力の限界を感じ引退する。闘うものを失い、数年後には認知症になってしまった。最近は終活をしているらしい。かつての同僚よりも高価な革貼りの終活日記を買ったのが自慢だとか。嫉妬は、体力を必要とする。生きることへの執着があるから嫉むのだ。嫉妬心がある限り人は死なない。
嫉妬とは、幼い頃より持っている感情。きっと死ぬまで持っている感情だ。嫉妬することは卑しいと教えられてきたし、人に嫉妬している自分は見苦しいと思う。嫉妬することが苦しくて諦めた恋もある。嫉妬せずに生きられたらどんなに楽だろうとも思う。だけれどもそれは、煩悩を捨て去った悟りの境地。嫉妬心を失ったら、死があるのみである。 嫉妬とは、生きる勇気を持っている人が得られる感情だ。兎の目にはない、もっと強い炎である。嫉妬は、向上心の裏返しだ。人の詠んだ句に嫉妬できるからこそ、人を驚かせるような俳句が詠めるのだ。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】