ハイクノミカタ

わが畑もおそろかならず麦は穂に 篠田悌二郎【季語=麦の穂(夏)】


わが畑もおそろかならず麦は穂に

篠田悌二郎
(秋桜子編「聖戦俳句集」1933年)


今、作者名その他の情報を入れずにこの句を読んだとしたら、どう鑑賞されるであろう。趣味の自家菜園で麦を作るというのはあまり聞かないように思うので、たぶんプロの作り手のことだろうと想像するし、「もおそろかならず」というややへりくだりつつ自負も感じさせる措辞が、若手の農家とか、それ専業ではない農家の詠み手ではないかと思わせるように思う。そこにそれ以外の文脈の入ってくる余地はなさそうなのだが、諸々の情報を踏まえて読みのコードを設定すると、あらびっくり、ということになる句だったりする。

「聖戦俳句集」は水原秋櫻子が『馬酔木』掲載作品から「大東亜戦争」に関わる作品を再選編集したもの。秋桜子は「序」において、戦争俳句の増加について「大東亜戦争開始以来、作者等の熱意は更に加はり、数においてもいちじるしく増加して、こゝに未曾有の業績が樹立せられ、今後ます〳〵期待することの出来るのは、俳壇にとつてまことに喜ぶべきことゝと言はねばならぬ。」と言う。つまりこの本はタイトル通りどっぷり大政翼賛のためのアンソロジーで、「戦線篇」「北満篇その他」「白衣勇士篇」「銃後篇」の四編に、秋桜子が特に感銘の深かった句に鑑賞文を付した「聖戦俳句抄」を加えてまとめられている。掲句はその「聖戦俳句抄」から抜いたもので、もちろん「銃後篇」に所収である。

掲句には「家庭菜園はじめて成功す」と前書があるのだそうだ。麦ではじめて家庭菜園?とも思うが、どうせ自給自足するなら主食を、と考えれば合理的ではある。が、本格的に広い畑を借りてやるなら話は別だが(そしてもはや家庭菜園の域を超えているが)、多少庭が広かろうが、家庭菜園で麦を収穫したとて何ほどの役に立つものか(ニップン(旧日本製粉)のHPによると、1㎡でうどん一杯分程度にしかならないらしい)。こうなると、もしかしたら篠田悌二郎は、そうやってまじめに大政翼賛側に立っている振りをしつつ、実はかなり巫山戯ていたのではないか、という気がしてくるのだが、秋桜子はまじめに鑑賞をする。

「この頃は庭の片隅や空地のあるところで、必ず野菜を作つてゐる。通りすがりに眼をとめると、蚕豆が熟れ、茄子の花が咲き、唐黍もすでに穂を持たうとしてゐる。いまゝでダリヤが咲き、朝顔の咲いた庭がかうなり、雑草のはびこるに任せた空地がかうなつたわけであるが、いかにも新鮮な感じで気持ちが良い。作者の家でもこれが試みられたのであらう。「家庭菜園はじめて成功す」といふ前書で察するとこれはもう二三年前からの苦心になるもので、今年は本当に立派に成功したものと思はれる。いろ〳〵のものゝ育つ中に殊に麦は勢よく伸び、今や穂をつけはじめた。朝早く起出て見ると、小さな露が葉に結び、日の出前の空は乳色に曇つてゐる。その穂を見つゝ胸いつぱいに新鮮な空気を吸ひ込んでゐると、「わが畑もおそろかならず」といふ心持がしみ〴〵と湧き出でたのであらう。同感も出来るし、佳い句であると思ふ。」

花壇が野菜畑に変わった景をとらまえて「いかにも新鮮な感じで気持ちが良い」と本気で考えているとしたら、それは紛れもなくジョージ・オーウェルの「1984」的なディストピアの風景であって、今の私の感覚からすれば秋桜子も悪ノリして巫山戯て書いているとしか思われない。最後には「序でながら、家庭の菜園は、単に野菜そのものが題材となるばかりでなく、これを詠めば自然に銃後の緊張した気持が現れるので、健全なる俳句の最も好き材料である。この句などを範として、もつと多く詠まれることを希望する。」とまでダメを押して締めくくるのだが、たとえば鉢植えのトマトを詠めば「自然に銃後の緊張した気持が現れる」などと言うことがあり得るかと言われると、やはり非現実的で、確信犯的に巫山戯て書いているようにしか見えない。

しかし、である。もしこの時の悌二郎も秋桜子も、全く以て本気であったとしたならば、実にその狂気はおぞましく、背筋が寒くなる話だとは思いませんか?

橋本直


【橋本直のバックナンバー】
>>〔45〕片影にこぼれし塩の点々たり     大野林火
>>〔44〕もろ手入れ西瓜提灯ともしけり   大橋櫻坡子
>>〔43〕美しき緑走れり夏料理        星野立子
>>〔42〕遊女屋のあな高座敷星まつり     中村汀女
>>〔41〕のこるたなごころ白桃一つ置く   小川双々子
>>〔40〕海女ひとり潜づく山浦雲の峰     井本農一
>>〔39〕太宰忌や誰が喀啖の青みどろ    堀井春一郎
>>〔38〕草田男やよもだ志向もところてん    村上護
>>〔37〕水底を涼しき風のわたるなり     会津八一
>>〔36〕棕梠の葉に高き雨垂れ青峰忌    秋元不死男
>>〔35〕谺して山ほととぎすほしいまゝ    杉田久女
>>〔34〕夕立や野に二筋の水柱       広江八重桜
>>〔33〕雲の上に綾蝶舞い雷鳴す      石牟礼道子
>>〔32〕尺蠖の己れの宙を疑はず       飯島晴子
>>〔31〕生前の長湯の母を待つ暮春      三橋敏雄
>>〔30〕産みたての卵や一つ大新緑      橋本夢道
>>〔29〕非常口に緑の男いつも逃げ     田川飛旅子
>>〔28〕おにはにはにはにはとりがゐるはるは  大畑等
>>〔27〕鳥の巣に鳥が入つてゆくところ   波多野爽波
>>〔26〕花の影寝まじ未来が恐しき      小林一茶
>>〔25〕海松かゝるつなみのあとの木立かな  正岡子規
>>〔24〕白梅や天没地没虚空没        永田耕衣
>>〔23〕隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな  加藤楸邨
>>〔22〕幻影の春泥に投げ出されし靴     星野立子
>>〔21〕餅花のさきの折鶴ふと廻る       篠原梵

>>〔20〕ふゆの春卵をのぞくひかりかな    夏目成美
>>〔19〕オリヲンの真下春立つ雪の宿     前田普羅
>>〔18〕同じ事を二本のレール思はざる    阿部青鞋 
>>〔17〕死なさじと肩つかまるゝ氷の下    寺田京子
>>〔16〕初場所や昔しこ名に寒玉子     百合山羽公
>>〔15〕土器に浸みゆく神酒や初詣      高浜年尾
>>〔14〕大年の夜に入る多摩の流れかな   飯田龍太
>>〔13〕柊を幸多かれと飾りけり       夏目漱石
>>〔12〕杖上げて枯野の雲を縦に裂く     西東三鬼
>>〔11〕波冴ゆる流木立たん立たんとす    山口草堂
>>〔10〕はやり風邪下着上着と骨で立つ    村井和一
>>〔9〕水鳥の夕日に染まるとき鳴けり    林原耒井
>>〔8〕山茶花の弁流れ来る坂路かな     横光利一
>>〔7〕さて、どちらへ行かう風がふく     山頭火
>>〔6〕紅葉の色きはまりて風を絶つ     中川宋淵
>>〔5〕をぎはらにあした花咲きみな殺し   塚本邦雄
>>〔4〕ひっくゝりつっ立てば早案山子かな  高田蝶衣
>>〔3〕大いなる梵字のもつれ穴まどひ     竹中宏
>>〔2〕秋鰺の青流すほど水をかけ     長谷川秋子
>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風       正岡子規


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • follow us in feedly

関連記事

  1. 暑き夜の惡魔が頤をはづしゐる 佐藤鬼房【季語=暑し(夏)】
  2. てつぺんにまたすくひ足す落葉焚 藺草慶子【季語=落葉焚(冬)】
  3. うつくしき羽子板市や買はで過ぐ 高浜虚子【季語=羽子板市(冬)】…
  4. 大空に自由謳歌す大花火 浅井聖子【季語=大花火(夏)】
  5. 春は曙そろそろ帰つてくれないか 櫂未知子【季語=春(春)】
  6. 時雨るるや新幹線の長きかほ 津川絵理子【季語=時雨(冬)】
  7. 埋火もきゆやなみだの烹る音 芭蕉【季語=埋火(冬)】
  8. 白衣とて胸に少しの香水を 坊城中子【季語=香水(夏)】

おすすめ記事

  1. 「野崎海芋のたべる歳時記」卵のココット
  2. 姦通よ夏木のそよぐ夕まぐれ 宇多喜代子【季語=夏木(夏)】
  3. 馴染むとは好きになること味噌雑煮 西村和子【季語=雑煮(新年)】
  4. 東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜【季語=東風(春)】
  5. 婿は見えたり見えなかつたり桔梗畑 飯島晴子【季語=桔梗(秋)】
  6. 【春の季語】立春
  7. 【秋の季語】末枯
  8. 【新年の季語】七種(七草)
  9. 【夏の季語】夜の秋
  10. 或るときのたつた一つの干葡萄 阿部青鞋

Pickup記事

  1. 【第3回】ラジオ・ポクリット(ゲスト: 成田一子さん)
  2. 太る妻よ派手な夏着は捨てちまへ ねじめ正也【季語=夏着(夏)】
  3. 名ばかりの垣雲雀野を隔てたり 橋閒石【季語=雲雀野(春)】
  4. クローバーや後髪割る風となり 不破 博【季語=クローバー(春)】
  5. 落椿とはとつぜんに華やげる 稲畑汀子【季語=落椿(春)】
  6. 【秋の季語】秋の蛇
  7. 【冬の季語】八手の花
  8. 寒いねと彼は煙草に火を点ける 正木ゆう子【季語=寒い(冬)】
  9. ゆげむりの中の御慶の気軽さよ 阿波野青畝【季語=御慶(新年)】
  10. 【冬の季語】枇杷の花
PAGE TOP