「ぺットでいいの」林檎が好きで泣き虫で
楠本憲吉
『楠本憲吉集』
ある時、若い恋人達がお互いのことを名前とはほど遠いあだ名で呼び合っていた。「ギルちゃん」とか「シャルちゃん」とか。どうやら、女性が昔飼っていた犬の名が「ギルバート」で、男性の故郷で飼っている猫が「シャルロット」であることからペットの名前で呼び合っているらしい。それぞれのペットの名は、少女漫画のキャラクターより採っているとのこと。女性が飼っていたのは、ゴールデンレトリバー。男っぽくて洋風なイメージがある。どことなく、彼氏に似ているような気もする。男性の故郷で飼っている猫は、シャム。しなやかで優雅な雰囲気は彼女に似ている。性格も似ているらしく、恋人になる前より、二人だけの秘密としてちょっと恥ずかしいあだ名で呼び合っていたとか。
不思議と雌雄に関わらず、犬は男性的で、猫は女性的である。群れ社会で生き序列に従いつつも喧嘩っ早い男性は犬的。ある程度の序列を気にしつつも気まぐれで我が儘な女性は猫的。ペットとは人間のエゴで飼われている。どんなに愛おしくても恋人にはできない。所詮は、動物。飼ってやっている、飼われているという関係だ。でも人は時にペットを恋人以上に溺愛することがある。
谷崎潤一郎の小説『猫と庄造と二人のをんな』では、主人公の庄造は、前妻の品子から雌猫のリリーを譲って欲しいと言われる。庄造は、品子を捨てた罪悪感や再婚した妻の福子の強い主張によりリリーを手放す。現在の妻である福子は自分以上に庄造から愛されているリリーに嫉妬していたのだ。前妻の品子もまた、リリーを手元に置いておけば庄造が戻ってくるかもしれないという魂胆があった。リリーに愛着があったわけではない。ところが、引き取ったリリーは庄造を恋しがって餌も食べず排泄もしない。心配になり一生懸命世話をしてしまう。やがて品子とリリーとの間に絆が生まれる。庄造はリリーがどうしても恋しくなり品子の留守に逢いに行くのだが、リリーは素っ気ない態度を取る。品子もまた、庄造よりリリーが大切になってしまい、別れた夫への未練がなくなる。
東北地方で信仰されている「おしら様」には、人間の娘と馬との悲恋伝説がある。昔、ある農家に娘がいた。娘は飼っていた農耕馬の世話をしている内に恋仲となり情を交わす。怒った父親は、馬の首をはねてしまう。娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、おしら様となった。古代よりある異類婚姻譚を踏まえているのだが、娘と馬との許されぬ恋が悲しい。
三浦しをんが女流小説家短編集『最後の恋―つまり、自分史上最高の恋。』に書き下ろした小説では、ペットである犬が飼い主の女性に恋をしてしまう。飼い主よりも早く死んでしまうことを悟った犬は、恋敵の男性に自分が死んだ後も彼女の側にいてくれるよう頼もうとする。
飼育された動物と飼い主との叶うことなき恋は悲しくも共感を呼ぶ。叶わない恋だからこそ愛し愛され続ける。死した後も愛され続ける。ペットとは永遠の恋人なのだ。
「ぺットでいいの」林檎が好きで泣き虫で 楠本憲吉
『きみはペット』(小川彌生:原作)という漫画があった。ヒロインは才色兼備のキャリアウーマンだが、恋愛には不器用。ある日、家の前に転がっていた段ボールに捨てられた青年をペットとして飼うことになる。青年は昔飼っていたペットに似ていたのだ。結婚を意識したイケメンのエリート男性にも言えない弱みを吐いてしまい、癒やしとなる。青年は、ペットであることを条件にヒロインの家で飼育されることになったのだが、彼女の恋人に嫉妬するようになる。
当該句は、『きみはペット』よりも遥か前に詠まれた句である。もしかしたら、恋人に「ペットでいいの」とか言われたのかもしれない。相手は、猫的な女性だったのだろう。林檎の皮も剥けないような不器用な女性。剥いてあげた林檎をシャリシャリと食みながら涙目で訴えられたのだ。許せないぐらい可愛い女性だ。
林檎というと島崎藤村の詩『初恋』を想起する。モデルは、教え子であった少女と言われている。藤村は釣った魚に餌をあげないタイプの男性だが、その時は本気で恋をし、自分色に染めようと思ったのだろう。男性にとって年下の女性はペットみたいなものなのかもしれない。
〈淋し過ぎるよ女に秋果購うなんて 楠本憲吉〉の句のモデルもペット志願の女性に違いない。〈秋果〉を購うことが何故淋しさに繋がるのか。それは、女性が「好きな餌だけ与えとけば私は喜ぶとでも思っているの」という気持ちを察したからだ。女性が本当に欲しいのは、食べ物でも宝石でもない。命がけの愛情だ。人はペットのために命はかけない。ペットは料理も作れなければ病気になったときに世話もしてくれない。所詮は愛玩動物なのだが、生きる希望を与えてくれることも確かである。
何の役にも立たない不器用な恋人がいた。足手まといにしかならないことを本人も自覚していたのだろう。だからせめて男性の癒やしにでもなればと思い、言ったのだ。「ペットでいいの」と。その瞬間から限りなく愛おしい存在となった。彼女の好きな林檎を買うと、急に泣き出したり、「面倒な奴だな」と突き放すと甘えてきたり。面倒だが愛おしい。
ペットとは、恋人以上に愛すべき存在であり恋人よりも自分を愛してくれる。私も夫のペットになりたいものである。
(篠崎央子)
【筑紫磐井さんも愛してやまない『楠本憲吉全句集』はこちら ↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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