雛飾る手の数珠しばしはづしおき 瀬戸内寂聴【季語=雛飾る(春)】


雛飾る手の数珠しばしはづしおき

瀬戸内寂聴
『生と死の歳時記』1999年


瀬戸内寂聴が亡くなった。俳句を詠む人であることは存じていたが、あまりこの作家の句文を読んだことがなくて、唯一持っているのが『生と死の歳時記』。そもそもこの本を買ったのは、昔とある仕事で掲句の鑑賞を書かねばならなくなり、典拠を取り寄せる必要があったためだった。ということで、季節違いの句だけど、今回は追悼の意を込めてこの句を取り上げさせていただきます。

『生と死の歳時記』は、瀬戸内寂聴と齋籐愼爾の共著で、生と死にまつわるキーワード(季語も含む)ごとに句を集め、どちらかあるいは両方がそこにエッセイを付しているという構成。単行本の表紙はフラ・アンジェリコの「受胎告知」で、文庫は酒井抱一「夏秋草図屏風」の秋の紅葉しきった蔦の葉の部分と、単行本と文庫で生と死の一歩手前を描く画を配してあるという凝りぶり。そして掲句は、同書に巻末付録として掲載された著者の「生と死を詠む」句から取った。以前に書いた鑑賞文では、「作者は仏に仕える身ゆえ、本来なら数珠は手放せないものであるが、雛を飾っているあいだだけは外しておく、というのである。これは、硬い数珠で雛に痛い思いをさせたくないという作者の雛に対する深い愛情のなせる心配りであろう。人形をただの物とは思わず、魂の入った存在としてみているのがわかる。」と書いた。これをもっと深読みすれば、数珠を外す行為の中に外している間は信仰を忘れて女に戻る、などという読みも浮上しうるだろうか。が、もとより句の解釈においては、主人公を作者瀬戸内寂聴に限定する必要などはない。信仰の厚い人物であり、一方で雛人形に命があると思ってしまうような人、くらいでも充分なのだろう。といいつつも、そうではあるが、という話になってしまうのだけれど、『生と死の歳時記』の「雛」の項で作者は、「毎年、雛の節句の十日くらい前に箱から出して飾るのが愉しみでならなかった。薄い桜紙でひとつずつ丁寧にくるんであるのをそうっとはがす時、涙のあとが残ってはいないかと、胸がときめく」と子供の頃の回想を書いており、雛人形をただのモノとは見ていない態度が、掲句の趣に通じている。これら一書中の句文の連関に、読者を誘導する作家の意図がまったくなかったとは考えにくいように思うのだけれど。

橋本直


【橋本直のバックナンバー】

>>〔58〕枯芦の沈む沈むと喚びをり      柿本多映
>>〔57〕みかんいろのみかんらしくうずもれている 岡田幸生
>>〔56〕あきかぜの疾渡る空を仰ぎけり  久保田万太郎
>>〔55〕自動車も水のひとつや秋の暮     攝津幸彦
>>〔54〕みちのくに生まれて老いて萩を愛づ  佐藤鬼房
>>〔53〕言葉がわからないので笑うてわかれる露草咲いてゐる 種田山頭火
>>〔52〕南海多感に物象定か獺祭忌     中村草田男
>>〔51〕胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋    鷹羽狩行
>>〔50〕ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ
>>〔49〕彎曲し火傷し爆心地のマラソン    金子兜太
>>〔48〕蜩やチパナスのあたり雲走る     井岡咀芳
>>〔47〕日まはりは鬼の顔して並びゐる    星野麦人
>>〔46〕わが畑もおそろかならず麦は穂に  篠田悌二郎
>>〔45〕片影にこぼれし塩の点々たり     大野林火
>>〔44〕もろ手入れ西瓜提灯ともしけり   大橋櫻坡子
>>〔43〕美しき緑走れり夏料理        星野立子
>>〔42〕遊女屋のあな高座敷星まつり     中村汀女
>>〔41〕のこるたなごころ白桃一つ置く   小川双々子
>>〔40〕海女ひとり潜づく山浦雲の峰     井本農一
>>〔39〕太宰忌や誰が喀啖の青みどろ    堀井春一郎
>>〔38〕草田男やよもだ志向もところてん    村上護
>>〔37〕水底を涼しき風のわたるなり     会津八一
>>〔36〕棕梠の葉に高き雨垂れ青峰忌    秋元不死男
>>〔35〕谺して山ほととぎすほしいまゝ    杉田久女
>>〔34〕夕立や野に二筋の水柱       広江八重桜
>>〔33〕雲の上に綾蝶舞い雷鳴す      石牟礼道子
>>〔32〕尺蠖の己れの宙を疑はず       飯島晴子
>>〔31〕生前の長湯の母を待つ暮春      三橋敏雄
>>〔30〕産みたての卵や一つ大新緑      橋本夢道
>>〔29〕非常口に緑の男いつも逃げ     田川飛旅子
>>〔28〕おにはにはにはにはとりがゐるはるは  大畑等
>>〔27〕鳥の巣に鳥が入つてゆくところ   波多野爽波
>>〔26〕花の影寝まじ未来が恐しき      小林一茶
>>〔25〕海松かゝるつなみのあとの木立かな  正岡子規
>>〔24〕白梅や天没地没虚空没        永田耕衣
>>〔23〕隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな  加藤楸邨
>>〔22〕幻影の春泥に投げ出されし靴     星野立子
>>〔21〕餅花のさきの折鶴ふと廻る       篠原梵

>>〔20〕ふゆの春卵をのぞくひかりかな    夏目成美
>>〔19〕オリヲンの真下春立つ雪の宿     前田普羅
>>〔18〕同じ事を二本のレール思はざる    阿部青鞋 
>>〔17〕死なさじと肩つかまるゝ氷の下    寺田京子
>>〔16〕初場所や昔しこ名に寒玉子     百合山羽公
>>〔15〕土器に浸みゆく神酒や初詣      高浜年尾
>>〔14〕大年の夜に入る多摩の流れかな   飯田龍太
>>〔13〕柊を幸多かれと飾りけり       夏目漱石
>>〔12〕杖上げて枯野の雲を縦に裂く     西東三鬼
>>〔11〕波冴ゆる流木立たん立たんとす    山口草堂
>>〔10〕はやり風邪下着上着と骨で立つ    村井和一
>>〔9〕水鳥の夕日に染まるとき鳴けり    林原耒井
>>〔8〕山茶花の弁流れ来る坂路かな     横光利一
>>〔7〕さて、どちらへ行かう風がふく     山頭火
>>〔6〕紅葉の色きはまりて風を絶つ     中川宋淵
>>〔5〕をぎはらにあした花咲きみな殺し   塚本邦雄
>>〔4〕ひっくゝりつっ立てば早案山子かな  高田蝶衣
>>〔3〕大いなる梵字のもつれ穴まどひ     竹中宏
>>〔2〕秋鰺の青流すほど水をかけ     長谷川秋子
>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風       正岡子規


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


関連記事