かいつぶり離ればなれはいい関係
山﨑十生
(『花鳥諷詠入門』)
学生の頃、『THE RULES―理想の男性と結婚するための35の法則』という恋愛マニュアル本が流行った。内容を大雑把に要約すると、結婚したい男性とは付かず離れずの態度を取れということであったと記憶している。自分から「逢いたい」と言ってはいけないとか、初デートでは食事の後はすぐ帰れとか、結婚をほのめかしてはいけないとか。著者はニューヨーク在住の女性なので、日本の恋愛ルールには当てはまらないことも多かった。でも、恋人とは四六時中一緒にいたいと願いひたすら尽くし、振られてきた私には、バイブルの書となった。同時期に恋愛相談をした年上の男性も言っていた。「男性は惚れられたら逃げる」と。人を好きになって恋が始まる。それは大切な一歩。だけれども夢中になってはいけない。相手の重荷にならないように適度な距離を保つのも大切な気遣いなのだ。
若い頃の恋は、自分のことを分かって欲しいという気持ちばかりが先走って、相手の事情を察することができなかった。仕事で悩んでいる男性に「手料理を作ったから逢いに来て」と言う行為が、相手の負担になるとは知りもしなかった。ただ、逢いたくて逢いたくて、その気持ちを表したかっただけなのに。前日の夜から手間暇をかけて作った完璧な料理の数々。確かに重い。その激しい想いは、疲れきった男性の安らぎにはならずプレッシャーをかけていたのだ。
手痛い失恋の直後に恋愛マニュアル本を読み、年上男性の助言を信じてからの私は、感情をコントロールすることを心がけるようになった。さらには、試行錯誤の上に自分の恋愛マニュアルを組み立てた。会社の仕事もそうだが、恋愛もマニュアル通りにはいかないものだ。
20代半ばに知り合った男性は、とある企業の営業マン。恋の切っ掛けは私が用意した。映画に誘っただけなのだが。押しては引いてを繰り返し、交際まで漕ぎ着ける。交際してからは、適度な距離を保った。相手の忙しさを考慮した上で、「逢いたい」とは言わなかった。愛されたい気持ちを押し殺して、精一杯の強がりも吐いた。でも、どこかで見透かされていたのだろう。ある時「俺は、仕事も忙しいし、友人も大事にしたいし、趣味も捨てられない。もっと一緒に居てくれる相手を探したら」と言われた。若い私は、言葉の裏側にある淋しさに気付けなかった。「では、そうします」と答えた。「逢えなくても好き」とか「待ってるから」とか言えば良かったのかな。プライドが高かったと言われれば、その通りだ。まさか、その後からしつこく追い回されるとは思ってもいなかった。突き放されたから諦めた。諦めた瞬間に恋が冷めた。追いかけてくれたことは、嬉しかったが寄りを戻す気にはなれなかった。
恋人と距離を持ったことにより愛されていることを知り、恋を失った。距離を持つことは、必要だけれども、距離を縮めることも大切だ。男女の恋の熱には少々の時間のズレがある。相手の発している信号を読み取り、近付いたり離れたりを繰り返さなければならない。男女の恋の時間差や距離感を把握できれば、恋の魔術師になれるのだろう。
かいつぶり離ればなれはいい関係 山﨑十生
おしどり夫婦という言葉があるが、水鳥の多くはつがいで行動する。餌を食む時も飛び立つときも一緒。子育ても一緒にする。同じ水鳥でも「かいつぶり」の夫婦は、離れて行動する。一緒に居る時もあるのだが、肉食ということもあり、それぞれ別の魚を追いかける。巣作りの時も役割分担がはっきりしている。オスは枝を集めて浮巣を作る。妊娠中のメスはひたすら狩りをする。出産後は、メスは巣の上で育児に専念。オスは、一日中狩りをして食事を運ぶ。雛鳥が泳げるようになっても、メスは子供を誘導し、オスは少し離れたところから見守っている。一緒に居る時間が少ない夫婦である。
尽くしすぎる女性がいた。交際3年目の時、男性の仕事の事情で遠距離恋愛になった。女性は、男性に飽きられていることを心のどこかで察していたのだが、遠距離になった途端、毎日電話がくるようになった。近くにいた時は、電話をしても出てくれなかったのに。紆余曲折のすえに一緒に暮らすことになる。慣れない土地での生活。帰りの遅い男性を責めてしまう日が続き別れた。その後、その女性は男性不信に陥ったが、とある男性から口説かれて尽くされて、結婚に至った。子供が成人した今も仲の良い夫婦とか。失恋の反省を活かして、夫との距離をコントロールしたから幸せを得たのだと理解している。
男性は、追いかけるのが好き。愛されたい尽くされたい気持ちもあるのだが。ベタベタめそめそは面倒なのだろう。本当は体当たりで惚れて欲しいけれど、それを受け止められるほどの余裕がないのだ。男性は、闘わなくてはならない本能があるから。常に上を目指せと教育されてきたから。だから、逢いたい気持ちをぐっと堪えて適度な距離を保つ女性を追いかけ、時折見せる笑顔に安らぎを感じるのだ。
頭では分かっているのだが、私は本来、ベタベタめそめその面倒な女である。若い頃に読んだ恋愛マニュアルを実行して夫を手に入れた。結婚して分かったのだが夫もベタベタめそめその性格でとにかく離れがたい。しかも俳人夫婦である。句会ではいつも隣に座る。吟行の時も一緒に行動する。結婚する前は、お互い親友がいて、不器用な夫も私もその親友といつもベタベタと一緒にいた。結婚してからは、夫と私がいつも一緒にいるので、それぞれの親友から怒られた。「離れなさい」と。「一緒に居たら、同じような俳句しか作れないでしょ」。全くその通りだ。さらには私の年上の親友は夫に言ったらしい。「あの子は、いつも私の後ばかり付けていたのに、今は貴方の後ばかり付けている。私の親友を奪わないで」と。友人の少ない私がいつもベタベタしていて疎ましがられていると思っていたのに。憧れの先輩であった女性は、距離ができて本当の親友になれたのだ。
またある時、カップル吟行句会があった。参加者は夫婦か恋人同士。私達夫婦は当然のように一緒にいる。ところが他のカップルは、それぞれ別々の場所で俳句を詠んでいる。飲み会でも別々の場所に座り、参加者と交流を深めている。そうかと思うと、時々目を合わせて微笑んでいる。なんだか刺激的。離ればなれも良いなと思った。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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>>〔77〕寝化粧の鏡にポインセチア燃ゆ 小路智壽子
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>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花 中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
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>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
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>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書 藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな 星野石雀
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>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて 小澤實
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