子燕のこぼれむばかりこぼれざる
小澤實
飛来・抱卵から成長して巣立つまでを見届けることの出来る燕の巣が生活圏に少なくとも三箇所ある。一箇所はビルにあったがそのビル自体の取り壊しが決っている。もう一箇所は何度作ってもすぐに巣そのものが壊れてしまう。悪いことばかり想像してしまうので壊れた理由はあまり考えないようにしている。現在認識出来ている最後の一箇所は、ある店舗の軒先。毎年2回しっかりと雛たちを巣立たせている。巣も丈夫でなかなか壊れないので今年の5月中旬までは安心して見入っていた。軒を貸している店も良心的に受け入れていた。先週、その巣もついになくなってしまった。雛がかえっていたのに、何があったのだろう。落胆の日々を送っていたが、今日、同じ軒先の別の場所に巣を作っていることを発見したのである。最後の望みがつながった…。今日は良い日だ。
子燕のこぼれむばかりこぼれざる
庇の中にある燕の巣を仰ぐと、雛たちが顔を出している。親燕たちがいない間はおとなしいが、帰ってくると一気ににぎやかになる。真一文字に結んでいた白い嘴をまん丸になるまで開けて餌をねだるのだ。そうして雛たちが成長していくと、4~5羽の雛が巣からこぼれんばかりの大きさになる。ある時から「こぼれむばかり」を越えてこぼれた状態になる。1羽はもはや巣には収まらず、他の雛たちの背に乗っているのである。
この「こぼれむばかり」の頃になると子燕たちの飛行訓練が始まる。すぐそこの電線に飛ぶ練習だ。人間を怖がらない子燕は人間との距離が近い。長時間見つめていても逃げずにその姿を見せてくれるのだ。電線にとまれるようになったら今度は道路越しの電線へ。この時、美観のために電線を埋める計画がもしあっても出来るだけ延期してもらいたいと思うのだ。
電線にとまる子燕たちを見届ける日々をしばらく過ごすと、ある日一羽もいなくなっている。巣立ったことを喜ぶ気持ち半分、しばらく会えなくなる寂しさ半分。卵がかえるのはだいたい1年で2回なので、2回目が終ってしまうともう来春を待つしかなくなる。それだけに毎年初燕に出会う喜びはひとしおなのだ。
「こぼれざる」はなんとかこぼれず巣の中に留まっている様子を素直に述べている。物理的にこぼれていないことを示しつつ、一羽もこぼれることなく巣立つ燕の営みをも感じさせる。そんな懐の広さを持った表現である。「こぼれそう!」と心配しながら長い時間眺めていたこともさりげなく表現されている。
はばたくための準備とは「こぼれむばかり」まで周到に整えることなのかもしれない。せめてここぞというときは心がけよう。燕の巣にも人生模様が詰まっている。
『立像』(1997年刊)所収。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】