恋の神えやみの神や鎮花祭 松瀬青々【季語=鎮花祭(春)】


恋の神えやみの神や鎮花祭

松瀬青々
(『妻木』)

 恋とは流行風邪のようなものである。思春期の頃、クラスの誰それが告白したとか交際し始めたとかの噂が流れると、急に誰もが恋の熱に浮かされた。風邪も恋も最初が肝心。気のせいだと思っているうちにどんどん重症化してしまう。こじれてしまう前に病を認め、対処法を練るべきである。それでも、自身の恋心に気付いた時にはもう止めることができないのだが。恋に効く薬が無いように風邪薬にも特効薬は無い。すべては、苦しんだ末に時間が解決してくれる。治ってしまうと、甘く苦しい痛みの記憶だけが残る。

 「目病み女に風邪ひき男」という諺がある。眼病の女は、その潤んだ目つきが男心をそそり、風邪をひいている男は、甘い風邪声が女心をくすぐる。結膜炎などで目を赤くして涙を拭っている女性は可愛らしい。眼帯も格好良い。風邪声の男性もまたいつもとは違う鼻にかかった響きがドキリとする。眼病も風邪も感染性のある病。人から移されないよう気を付けるべきなのだが、疫病も恋の病も突然かかるものである。

 三十歳の頃、花粉症になった。感染症ではないが仲の良い人はみな花粉症であった。当時の会社の上司は、営業から事務へ異動してきたばかり。花形営業マンが事務職の課長になったのは栄転だったのか左遷だったのか、私には関係の無いこと。上司は、現場の作業を理解しようとはせず、ただ威張っているだけの嫌な男性であった。上司の眼からしたら、事務的に様々な許可の申請をする私は偉そうに映ったと思う。春もたけなわの頃、花粉症の私が腫れた目で業務の説明をし、風邪をひいた上司が「許可を得たいなら、分かるように説明したまえ」と言う。新入社員でも分かるような説明を理解できない上司に苛立つ場面なのだが、笑ってしまった。「課長の風邪声、可愛い」と。すると上司も「ウサギみたいな赤い目をしているヤツに何言われても説得力がないんだよ」と言う。直後に二人とも盛大なくしゃみを連発して大笑い。紆余曲折のすえ、信頼関係を築くことができた。その上司は、私よりも先にリストラとなる。送別会の際には魚釣りの話で意気投合した。会社以外の場所で出逢っていたら恋に発展したのかもしれない。恋をしてはいけない相手であることや同僚の視線が歯止めを掛けた。恋の病は、感染しても初期の段階なら無症状のまま終わらせることもできるのだ。

  恋の神えやみの神や鎮花祭   松瀬青々

 鎮花祭は、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)などで行われる祭礼のこと。古代では、桜の花びらが散る頃に、疫病(えやみ)の神が分散して疫病を流行らせると考えられた。そこで、疫神を祭り、流行病を鎮め、防いだことから「はなしずめのまつり」とも呼ばれる。毎年4月18日に行われる。桜の花を稲の花に見立てた農耕民族の儀礼の名残ともいわれている。桜の花が豊かに咲いた年は、秋の稲の稔りが期待された。桜の花が早く散るのを惜しむ一面もあるのだろう。現代では、杉花粉が多く飛散した年は米が安くなると噂されている。春の花の豊かさと秋の収穫には因果関係があるのだ。

 大神神社の祭神は三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)。三輪山の神には、恋の伝承が複数ある。

 勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)という姫君を気に入った大物主神は、赤い丹塗り矢に姿を変え、姫君が川にてしゃがみ込み用を足している時に、上流から流れてゆき姫君の陰(ほと)を突いた。驚いた姫君が、自分の部屋にて矢を抜くと麗しい男性の姿に変わった。こうして二人は結ばれた。用を足している女性を襲うとは迷惑な神様である。

 倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は、毎晩夜這いしにくる男性に「あなたの顔を見たい」と告げる。男性は、「絶対に驚いてはいけない」という条件つきで、朝になったら化粧箱を開くよう言った。朝になって化粧箱を開けると、小さな黒蛇の姿があった。驚いた百襲姫命が尻もちをついたところ、床に落ちていた箸が陰(ほと)に刺さり、死んでしまった。この黒蛇こそが大物主神の姿である。蛇とはまた淫靡である。

 活玉依毘売(いくたまよりひめ)のもとに、毎晩麗しい男性が訪ねてくるようになり、やがて妊娠した。身分も分からない男性の正体を知りたいと思った父母は、娘に麻糸を通した針を男性の衣の裾に刺すよう指示した。翌朝、針につけた糸をたどると三輪山の社まで続いており、相手の男性が大物主神であったことを知る。当時の夜這いは、相手の姿を確認できるまで時間を要したのである。現在なら犯罪に近いのだが。

 神様は、美しい女性たちと恋をして子孫を残してゆく。正体を知られて終わる恋もあれば続く恋もある。女性たちからすれば恋の病の正体を知るまでは不安なものである。

 コロナが流行し始め、最初の緊急事態宣言が発令された4月に私は40度の熱に3日間喘いだ。病院は、集団感染を防ぐため受診もさせてくれない。保健所に電話しても繋がらない。解熱剤とスポーツドリンクを飲んで4日目には平熱になった。解熱後は、歯肉炎も腰痛も治り、発熱以前よりも元気になってしまった。病の正体が不明のため、いまだにもやもやしている。名も分からぬ神様が私に恋をしたのだと思うことにした。

 コロナ禍はまだ続いている。収束の見えない疫病は、古代より存在していた。特に疱瘡(天然痘)は、死亡率の高い感染症であった。時代によってコレラや結核なども疫病として恐れられた。どの時代の人々も疫病で大切な人を失ってきた。そのことと恋を結びつけることは不謹慎だと非難されるのは当然だと思う。だが、恋の病で死ぬ人も多かった。疫病も恋も不治の病。特効薬もなく死に直結した時代があったのだ。疫病で命を落とした人の魂を救うために、人々は神様に愛されたがゆえの死としたのだ。恋で死ねることは、最高の美である。

 医療が発達し、恋の制約も少なくなった現代だからこそ思うのだ。恋とか疫病のために死んでたまるかと。女性は特に、厄介な恋の神様に愛されないよう除菌スプレーを携帯して頂きたい。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


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