五十なほ待つ心あり髪洗ふ
大石悦子
(『花神俳句館 大石悦子』)
女性は、待つ恋が多い。古代より女性は家の中で働き、男性は外で働く。男性が狩ってきたもので女性の生活は成り立っていた。男性もまた一人では生きられない。衣食住だけでなく一族を管理してくれる女性がいてこそ狩や戦に出掛けることができる。待ってくれている女性がいることは、男性の闘う原動力になるのだ。
日本には、通い婚という習俗があった。男性が恋をした女性の家を訪れる結婚形態である。中世の頃までは、女性に相続権があったため、男性にとっては、財力的に後ろ盾になってくれるかどうかも選択の範囲に入った。野心家の男性は、複数の女性と婚姻関係を結ぶことにより、勢力を広げてゆく。正妻といえども待つ夜が増えてゆく。戦国時代になれば、 男性を待つ期間は、数か月間から数年にも及ぶ。帰ってこないこともある。
松本清張の小説『地方紙を買う女』では、戦地から戻ってくる夫を待つ芳子がホステスの仕事をしながら庄田と関係を持ってしまう。夫の復員の知らせを受けた芳子は、庄田とその愛人を山深い渓谷へと誘い出し、青酸カリ入りの握り飯を食べさせる。庄田との関係を夫に知られたくなかったため、心中に見せかけ殺害したのだ。完全犯罪になるはずだったのだが・・・。地方紙に小説を連載する杉本の推理と芳子とのやり取りが見所である。満州に行ったまま戻らない夫を待つ芳子の苦労や寂しさを思うと切ない。何度もドラマ化されているが時代によって、夫を待つ設定が変わる。出稼ぎとか単身赴任とか。
ヴィヴィアン・リー主演の映画『哀愁』もまた、戦地に行った恋人を待つ話である。恋人ロイの戦死の報を受けたマイラは、生計を立てるため娼婦になる。その後、実は生きていたロイと再会するも娼婦にまで身を落としてしまったことに葛藤する。
男性の帰りを信じて待ちつつも現実には待っていられないことが悲しい。似たような設定の作品は、複数存在する。浮気相手を殺してしまう話もあれば、帰ってきた夫が負傷により働けないため娼婦を続ける話もある。待つ妻の孤独を知り、再び戦地へと向かう夫が愛人を容認する話など。待つことは女性をしたたかにするのだ。
『古事記』には、美童女だった時に、雄略天皇に口説かれ八十歳になるまで迎えを待ち続けた赤猪子の伝承がある。『源氏物語』の末摘花は、一族の没落により草の生い茂る家で光の君を待ち続ける。日本文学の語る待つことへの美学は恐ろしい。
現在は逆に待たせる女性が格好良い。待たせる理由は、気持ちの整理がつくまでとか、仕事が落ち着いたらとか、様々な理由がある。決してじらしているつもりはないのだが、じらされると男性は熱くなるものだ。そして、現代の女性は待たない。仕事を言い訳にして逢ってくれない男性は、早々に見切りをつけてしまう。でも女性の本心としては、待たせるよりも待っている方が楽しいのではないだろうか。
五十なほ待つ心あり髪洗ふ 大石悦子
作者は、子育てのために句作を一時中断していた時期がある。恋とは無縁な時間を過ごしていたと思われるが〈やまももや恋死なむには齢とりぬ 大石悦子〉という句もある。古典文学の素養があった作者の文芸上の創作かもしれない。あるいは、恋への憧れか。女性は、どんなに年を取っても誰かを恋い慕い待っている。
平安時代の女性は、男性がいつ訪れてきても良いように美しい身なりで夜を待つ。来るのか来ないのか分からない男性を待つ心は、不安と期待で溢れている。いつしか眠り、朝を迎えた時の落胆は計り知れないのだが。どの時代にも夜にしか逢えない恋人はいる。
大学生の頃、一人暮らしの淋しさから交際した男性は、恋よりも友情を優先する人。友人からの誘いを断れない。平日も休日も昼間は友人と過ごし、夜もまた飲んだ後に部屋にやってくる。空腹で来るときもあれば、酔いつぶれて来ることもある。時間を持て余していた学生の頃だから、アルバイトの無い日は料理を作り、汗を洗い流して待っていた。連日のように来てくれたのは、最初の数か月だけ。香水や化粧の匂いが嫌いだった彼のために香料の薄い化粧をして待った。ある時、洗いたての私の髪の匂いを嗅いで、いい匂いだと言った。経済的な事情で安いシャンプーに変えたのだが、どうやら母親の使っていた銘柄だったようだ。いつも突然やってくる彼のために、食べるかどうか分からない料理を作り、慌ただしく髪を洗っていた私は滑稽でしかない。だがそれは、待つことの美学を文学により叩き込まれていた私にとっては、楽しい時間だった。
結婚してからも帰りの遅い夫のために夕食を作り、髪を洗って待った。髪を洗っている間に帰ってきてしまったらどうしようなどと考えながら、胸が躍った。最近は、夫が在宅勤務となったので、ゆっくりと髪を洗う。原稿が忙しくて髪を洗えない日もある。夏場は、汗をかくので毎日洗う。そういえば、〈髪洗ふ〉は夏の季語だ。水が大切だった時代、女性の洗髪は水の豊かな夏に限られていた。冬場は濡れ髪が体を冷やすので避けられていた。古典文学を研究していた私が平安時代の女性のように夏場しか髪をこまめに洗わないのは可笑しなことである。先日、湯上りの私を見て夫が「髪が伸びたね」と言った。普段は、髪型を変えても全く気付かないのに。洗い髪の女性は、男性の眼には美しく見えるのだろう。四十代も後半になって改めて知った。ふと、待つ恋をしていた若き日の髪を洗い流す刹那の恍惚の記憶が蘇った。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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>>〔90〕恋の神えやみの神や鎮花祭 松瀬青々
>>〔89〕妻が言へり杏咲き満ち恋したしと 草間時彦
>>〔88〕四月馬鹿ならず子に恋告げらるる 山田弘子
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>>〔66〕手に負へぬ萩の乱れとなりしかな 安住敦
>>〔65〕九十の恋かや白き曼珠沙華 文挾夫佐恵
>>〔64〕もう逢わぬ距りは花野にも似て 澁谷道
>>〔63〕目のなかに芒原あり森賀まり 田中裕明
>>〔62〕葛の花むかしの恋は山河越え 鷹羽狩行
>>〔61〕呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉 長谷川かな女
>>〔60〕あかくあかくカンナが微熱誘ひけり 高柳重信
>>〔59〕滴りてふたりとは始まりの数 辻美奈子
>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな 筑紫磐井
>>〔57〕告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子
>>〔56〕愛されずして沖遠く泳ぐなり 藤田湘子
>>〔55〕青大将この日男と女かな 鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花 中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇 能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏 中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方 神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書 藤田直子
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>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂
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>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち 檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓
>>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ 仙田洋子
>>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと 五所平之助
>>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな 大木孝子
>>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま 日野草城
>>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
>>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー 古賀まり子
>>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ 河野多希女
>>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり 柿本多映
>>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空 黛まどか
>>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋 西東三鬼
>>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物 加藤郁乎
>>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈 尾崎放哉
>>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人 なつはづき
>>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
>>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇 新海あぐり
>>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な 遠山陽子
>>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰 文挾夫佐恵
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>>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか 竹岡一郎
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>>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実 保坂敏子
>>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中 鷲谷七菜子
>>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの 岩永佐保
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