秋鯖や上司罵るために酔ふ 草間時彦【季語=秋鯖(秋)】


秋鯖や上司罵るために酔ふ

草間時彦

 一日の終りにいかに美味しいお酒を飲むか。そのために一日をどう過ごすかが決まる。そういう生き方もきっと幸せだし、一時期それを追求していた時期もある。しかし最近は翌朝の早起きの方が気持ちよくてお酒は毎日飲むものではなくなった。飲み会が減っても意外と平気なことに気がついたのだ。

 そんなことよりもいつだって私には山のような宿題がある。それをやってのけた達成感は美酒に匹敵する。全部片付いたらさぞかし美味しいお酒となるだろうが、ほとんど片付かないのでそこまでなかなか到達しない。だからこそたまに飲むお酒は慎重に選びたい。

 言い尽くされてきたことではあるが、お酒はやはり共に飲む相手が大事。怖い上司に連れられて食べた2万円のステーキが砂のようだったという話は珍しくない。その会、私は行きたかったか? うーん、やはり行ってみないとわからない。上司の話は必要なところだけ聞かせていただき、ちゃっかりステーキを味わえるような大人にはなれている気がする。

秋鯖や上司罵るために酔ふ

 この句に初めて出会った時、これはサラリーマンにとって永遠の句だと思ったが、今読むと少し時代を感じる。とはいえ上司への愚痴こそ最高の肴。秋鯖の確かな美味しさにひけをとらない。より本音を語るにはより酔うことが必要。アルコール抜きでは言えないことが次々と口をついて出て、酒も秋鯖も止らない勢いだ。

 「秋鯖は嫁に食わすな」という嫁いびりの言葉があり、秋茄子だけではなく嫁は色々と美味しいものを食べさせてもらえないのだなぁと昭和の結婚事情に思いが到ってしまう。それもこれも秋鯖が美味しいからだ。

 鯖は太平洋を回遊しており、春から夏にかけて産卵を終えると北上、北海道沖で好物のプランクトンをたっぷり食べて丸々と太り、秋になると産卵のために南下する。そうして脂がのって身のしまった秋鯖となるのだ。

 こんなに美味しいものを食べてしまったら上司への不満もしぼんでしまうのではないだろうか。しかしもともとが罵るために集っているのだからその話が尽きることはなかったのだろう。

 飲み会の話題は今でもこれが主流なのだろうか?どちらかといえば上司がパワハラを気にしすぎて何もやらせてくれない!という愚痴が始まっていそうだ。上司を罵るために酔い始めたが、秋鯖と酒の美味を味わっているうちにその上司のことなど段々どうでもよくなっていって自分の夢を語り始める、というのが私の見立てであり、希望である。

『中年』(1965年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔65〕さわやかにおのが濁りをぬけし鯉 皆吉爽雨
>>〔64〕いちじくはジャムにあなたは元カレに 塩見恵介
>>〔63〕はるかよりはるかへ蜩のひびく 夏井いつき
>>〔62〕寝室にねむりの匂ひ稲の花  鈴木光影
>>〔61〕おほぞらを剝ぎ落したる夕立かな 櫛部天思
>>〔60〕水面に閉ぢ込められてゐる金魚 茅根知子
>>〔59〕腕まくりして女房のかき氷 柳家小三治
>>〔58〕観音か聖母か岬の南風に立ち 橋本榮治
>>〔57〕ふところに四万六千日の風  深見けん二
>>〔56〕祭笛吹くとき男佳かりける   橋本多佳子
>>〔55〕昼顔もパンタグラフも閉ぢにけり 伊藤麻美
>>〔54〕水中に風を起せる泉かな    小林貴子
>>〔53〕雷をおそれぬ者はおろかなり    良寛
>>〔52〕子燕のこぼれむばかりこぼれざる 小澤實
>>〔51〕紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 津田清子
>>〔50〕青葉冷え出土の壺が山雨呼ぶ   河野南畦
>>〔49〕しばらくは箒目に蟻したがへり  本宮哲郎
>>〔48〕逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花 中西夕紀
>>〔47〕春の言葉おぼえて体おもくなる  小田島渚
>>〔46〕つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子
>>〔45〕鳴きし亀誰も聞いてはをらざりし 後藤比奈夫
>>〔44〕まだ固き教科書めくる桜かな  黒澤麻生子
>>〔43〕後輩のデートに出会ふ四月馬鹿  杉原祐之
>>〔42〕春の夜のエプロンをとるしぐさ哉 小沢昭一
>>〔41〕赤い椿白い椿と落ちにけり   河東碧梧桐
>>〔40〕結婚は夢の続きやひな祭り    夏目雅子
>>〔39〕ライターを囲ふ手のひら水温む  斉藤志歩
>>〔38〕薔薇の芽や温めておくティーカップ 大西朋
>>〔37〕男衆の聲弾み雪囲ひ解く    入船亭扇辰
>>〔36〕春立つと拭ふ地球儀みづいろに  山口青邨
>>〔35〕あまり寒く笑へば妻もわらふなり 石川桂郎
>>〔34〕冬ざれや父の時計を巻き戻し   井越芳子
>>〔33〕皹といふいたさうな言葉かな   富安風生
>>〔32〕虚仮の世に虚仮のかほ寄せ初句会  飴山實
>>〔31〕初島へ大つごもりの水脈を引く   星野椿
>>〔30〕禁断の木の実もつるす聖樹かな モーレンカンプふゆこ
>>〔29〕時雨るるや新幹線の長きかほ  津川絵理子
>>〔28〕冬ざれや石それぞれの面構へ   若井新一
>>〔27〕影ひとつくださいといふ雪女  恩田侑布子
>>〔26〕受賞者の一人マスクを外さざる  鶴岡加苗
>>〔25〕冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ  川崎展宏
>>〔24〕伊太利の毛布と聞けば寝つかれず 星野高士
>>〔23〕菊人形たましひのなき匂かな   渡辺水巴
>>〔22〕つぶやきの身に還りくる夜寒かな 須賀一惠
>>〔21〕ヨコハマへリバプールから渡り鳥 上野犀行
>>〔20〕遅れ着く小さな駅や天の川    髙田正子
>>〔19〕秋淋し人の声音のサキソホン    杉本零
>>〔18〕颱風の去つて玄界灘の月   中村吉右衛門
>>〔17〕秋灯の街忘るまじ忘るらむ    髙柳克弘
>>〔16〕寝そべつてゐる分高し秋の空   若杉朋哉
>>〔15〕一燈を消し名月に対しけり      林翔
>>〔14〕向いてゐる方へは飛べぬばつたかな 抜井諒一
>>〔13〕膝枕ちと汗ばみし残暑かな     桂米朝
>>〔12〕山頂に流星触れたのだろうか  清家由香里
>>〔11〕秋草のはかなかるべき名を知らず 相生垣瓜人

>>〔10〕卓に組む十指もの言ふ夜の秋   岡本眸
>>〔9〕なく声の大いなるかな汗疹の児  高濱虚子
>>〔8〕瑠璃蜥蜴紫電一閃盧舎那仏    堀本裕樹
>>〔7〕してみむとてするなり我も日傘さす 種谷良二
>>〔6〕香水の一滴づつにかくも減る  山口波津女
>>〔5〕もち古りし夫婦の箸や冷奴  久保田万太郎
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎     神野紗希
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる  岸本葉子
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな    蜂谷一人


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

関連記事