寝室にねむりの匂ひ稲の花
鈴木光影
辞書をよく確認もしないで「寝る」に「眠る」は含まれないと思っていた。前者は横たわるだけで睡眠と同義ではないと決めつけて、よく寝たのかと聞かれたらよく眠ったと返していた。「また混同してる人がいる」という苛立ちは自分が作り出したもの。昨夜はよく寝た。寝る子は育つ。どう考えても睡眠のことだ。
心でも体でも睡眠は多くの問題を解決する。しかし睡眠をとるには心身の健康が必要。不安では眠れないし頭痛がひどければ睡眠に入れない。不安が入眠を妨げるのは赤ちゃんも同じということをしかるべきタイミングで知っておきたかった。良い睡眠をとるということは追求し続けるべきテーマである。
寝室にねむりの匂ひ稲の花
「眠り」は科学的な睡眠という印象だが「ねむり」と表記すると抱き枕を使いつつ体を丸めた体勢が想像される。
ねむりの匂いとは何か。真っ直ぐに考えると、眠りに入った人の呼吸や汗の匂いがある。暑さが残る朝、家族を起しに行った時の匂い。それが部屋にしみつき、その部屋の匂いの一部となったもの。もう一つは、これに触れると眠くなるという匂い。眠る前にアロマやお香を焚く人もいるだろう。睡眠に安心感は必須だからその人にとって安心するという意味でも自分の部屋にしみついた匂いが入眠に大きく貢献する。実家の匂い。
稲の花が咲くとご飯が炊けるような匂いがするという。稲の花は虚子編『新歳時記』では二百十日※前後が花盛りという解説がついている。私の周辺には稲の花が咲いたという情報が写真と共に届きはじめたので、これから盛りを迎えるのだろう。大歳時記を含めた手元の歳時記では稲の花の解説や例句で匂いに触れたものはなかったが、この句に出会ってから私にとっては嗅覚を伴う季語に上書きされた。
ねむりの匂いとは安心する匂いではないか。作者にとってはそれが稲の花の匂いなのである。それが他ならぬ寝室に限定しているのだから、自分の入眠時の匂いも含まれているはずである。窓を開けると田んぼ。居間には醤油の匂いやご飯の炊けの匂い。安心を呼ぶ入眠スイッチは作者にとってご飯が炊ける匂いなのだ。
『失われた時を求めて』で主人公は紅茶に浸したマドレーヌを食べたことで祖父母の家で過ごした時の幸福感が甦った。嗅覚が呼び起こす記憶でいうと、多くの日本人にとってはご飯が炊ける匂いが幸福感に直結しているはずである。
※二百十日:9月1~2日頃。2023年は9月1日(金)。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
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【吉田林檎のバックナンバー】
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>>〔60〕水面に閉ぢ込められてゐる金魚 茅根知子
>>〔59〕腕まくりして女房のかき氷 柳家小三治
>>〔58〕観音か聖母か岬の南風に立ち 橋本榮治
>>〔57〕ふところに四万六千日の風 深見けん二
>>〔56〕祭笛吹くとき男佳かりける 橋本多佳子
>>〔55〕昼顔もパンタグラフも閉ぢにけり 伊藤麻美
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>>〔53〕雷をおそれぬ者はおろかなり 良寛
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>>〔48〕逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花 中西夕紀
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>>〔40〕結婚は夢の続きやひな祭り 夏目雅子
>>〔39〕ライターを囲ふ手のひら水温む 斉藤志歩
>>〔38〕薔薇の芽や温めておくティーカップ 大西朋
>>〔37〕男衆の聲弾み雪囲ひ解く 入船亭扇辰
>>〔36〕春立つと拭ふ地球儀みづいろに 山口青邨
>>〔35〕あまり寒く笑へば妻もわらふなり 石川桂郎
>>〔34〕冬ざれや父の時計を巻き戻し 井越芳子
>>〔33〕皹といふいたさうな言葉かな 富安風生
>>〔32〕虚仮の世に虚仮のかほ寄せ初句会 飴山實
>>〔31〕初島へ大つごもりの水脈を引く 星野椿
>>〔30〕禁断の木の実もつるす聖樹かな モーレンカンプふゆこ
>>〔29〕時雨るるや新幹線の長きかほ 津川絵理子
>>〔28〕冬ざれや石それぞれの面構へ 若井新一
>>〔27〕影ひとつくださいといふ雪女 恩田侑布子
>>〔26〕受賞者の一人マスクを外さざる 鶴岡加苗
>>〔25〕冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ 川崎展宏
>>〔24〕伊太利の毛布と聞けば寝つかれず 星野高士
>>〔23〕菊人形たましひのなき匂かな 渡辺水巴
>>〔22〕つぶやきの身に還りくる夜寒かな 須賀一惠
>>〔21〕ヨコハマへリバプールから渡り鳥 上野犀行
>>〔20〕遅れ着く小さな駅や天の川 髙田正子
>>〔19〕秋淋し人の声音のサキソホン 杉本零
>>〔18〕颱風の去つて玄界灘の月 中村吉右衛門
>>〔17〕秋灯の街忘るまじ忘るらむ 髙柳克弘
>>〔16〕寝そべつてゐる分高し秋の空 若杉朋哉
>>〔15〕一燈を消し名月に対しけり 林翔
>>〔14〕向いてゐる方へは飛べぬばつたかな 抜井諒一
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>>〔12〕山頂に流星触れたのだろうか 清家由香里
>>〔11〕秋草のはかなかるべき名を知らず 相生垣瓜人
>>〔10〕卓に組む十指もの言ふ夜の秋 岡本眸
>>〔9〕なく声の大いなるかな汗疹の児 高濱虚子
>>〔8〕瑠璃蜥蜴紫電一閃盧舎那仏 堀本裕樹
>>〔7〕してみむとてするなり我も日傘さす 種谷良二
>>〔6〕香水の一滴づつにかくも減る 山口波津女
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>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな 蜂谷一人
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】