義士の日や途方に暮れて人の中
日原傳
今から9年前、「狩」俳句会に入会した頃に俳句と同時にもう一つ始めたことがある。それはyoutubeに上がっている落語を片っ端から聴いていくことである。そもそも、それまでに落語を聴いたことがないわけではない。一時期は桂枝雀ばかりを聴いていたこともある。他の噺家も数人聴いてみたが、数年間は枝雀以外を聴く気にはなれずにいた。
落語を改めて聴くようになったのには理由がある。俳句を始めた頃に一つ困ったことがあった。俳句を学ぼうと思うと句集や歳時記、入門書などの本を読む以外に思い浮かばない。昼休憩や就寝前などは読書が可能だが、通勤などの運転中は本を読むことが出来ないのだ。しかし何もしないのでは時間が勿体ない。そこで落語をもう一度聴いてみようと考えた。どうせなら今まで聴いてこなかった、枝雀以外の落語を聴いてみようと思ったのである。
通勤中・ウォーキング中・帰宅中の時間は必ず落語を聴くようにした。毎日欠かすこと無く数年間続けたのでそれなりの数の噺を聴いた。その中でも特に好きな噺が「中村仲蔵」である。
講談にもなっている「中村仲蔵」は江戸期の歌舞伎役者の話である。ある時役者として昇進した仲蔵は忠臣蔵を演じることになる。しかし先輩からの嫌がらせで、五段目の斧定九郎というちょい役になってしまう。忠臣蔵の中で五段目は通称「弁当幕」と呼ばれ、見所が少なくお客さんがお弁当を食べる幕である。斧定九郎は本来重役の倅であるにも関わらず、身なりが山賊のようで到底美しいとは言えない。仲蔵は何か良い工夫が出来ないかと考えつつお参りに行き、その帰りに雨宿りで蕎麦屋に立ち寄る。蕎麦屋で食べたくもない蕎麦を前に惨めな気分に陥っていると、自分の後にもう一人客が入って来た。破れた蛇の目傘を持った浪人風の男で、ずぶ濡れの様子であるが、やはり元は武士の出なのであろう。気丈そのもので所作が美しい。そこで仲蔵は「これだ」と思いつく。斧定九郎はもともと重役の倅なのだからと、その男をモデルにすることを思いつくのである。
いよいよ本番となり、頭から水を浴びる等色々な工夫を凝らす。しかし仲蔵の演技があまりにも迫真で美しい為、お客さんの反応は薄かった。仲蔵は失敗したのだと勘違いしたまま楽屋に戻るが、そこでも誰も何も言ってくれない。意気消沈して帰り妻に失敗したことを告げ旅に出ようとするが、師匠の使いの者が来て、急いで師匠のもとに駆けつけると最上級に褒められるという話である。
なるほどたしかに、何事も最大限の工夫と努力をすれば成功する可能性は上がるだろう。しかし誰もが噺のように成功するだろうか。おそらく仲蔵のように成功したいと思っても、誰でもいつでもは出来ないだろう。例えば仲蔵にしても、もし水虫だったらうまくはいかなかっただろう。上半身は見栄を切って美しい姿であっても、足先がムズムズと動いてしまっては形無しである。
そう考えると、やはり心身ともに健康であることが大事だと思う。
実はこのことは、絶景を見る時も同じではないだろうか。
新型コロナウイルスが収まっていた時期に、家族で京都の知恩院というお寺に泊まった。京都の宿泊にしては財布に優しい価格帯であり、お寺に泊まってみたいという気持ちもあったので、比較検討の末宿泊先に決めた。しかし着いてみると思った以上に敷地が広くお寺も大きい。着くなり家族一同が圧倒される程であった。しかも高級ホテルのようなロビーで受付も丁寧である。さらに部屋も新しく綺麗で、子ども連れでも寛げるほどに部屋も広かった。
たまたまライトアップのイベント中で、受付で無料観覧券を貰ったので行ってみることにした。外は既に暗くなっており、ライトアップには絶好の時間帯であった。
普段は一般公開されていない国宝「三門」が限定公開されているというので、せっかくだからと上がってみることにした。多少行列になってはいたが、まずは「三門」を見てライトアップを巡るのが順路のようであったので、あまり深くは考えず並ぶことにした。やがて順番になり中に入ると、それまで行列で見えていなかった長い急角度の階段が見えた。子どもを連れて上がるにはやや危険である。しかし後ろも行列が出来ており、もはや登るしかなさそうだ。妻と顔を見合わせて覚悟を決める。妻は重いリュックを背負っていたが、2歳の娘は怖がって妻の抱っこでないと許してくれない。仕方がないので筆者は6歳の息子の手を強く握り直し一歩を踏み出した。
実際に登りはじめると恐怖感がより一層増してくる。しかしもう引き返すことも出来ない。前に進むしかないのである。妻は「怖い危ない」と叫びつつも、なんとか娘を抱っこしたまま筆者の前を進んでいた。半分を過ぎた頃だろうか。妻から恐れていた一言が漏れた。「もう無理」それはまずい。急階段の途中なので休憩できるわけではない。後ろにも行列がいるので立ち止まることも出来ない。しかし倒れてしまっては明日のニュースになるだろう。娘の抱っこを代わってあげることも出来ないまま、なんとか最後まで登りきったが、その頃には家族全員がげっそりとしていた。楼上からは夜景が見えたが、子どもたちは震える程怖がっていた。「とにかくもう降りよう」
「三門」の楼上は仏堂となっており何体かの仏像がライトアップされているようで興味はあったが、横目に見つつそそくさとその場を去り、なんとか無事に地上に降りることが出来た。死ぬかと思った体験の一つである。
本来ならば絶景のはずがそれどころではなかった。やはり絶景を見る時も心身ともに健康であることが大事なのだ。
近頃は第八波などとニュースで耳にします。時節柄くれぐれもご自愛のほどお祈り申し上げます。
(赤松佑紀)
【執筆者プロフィール】
赤松佑紀(あかまつ・ゆうき)
昭和59年福井県生まれ、広島県在住。音響専門学校在学中にCDデビュー。現在はWEBデザイン会社専務取締役。「香雨」同人。俳人協会会員。
平成25年「狩」入会。平成31年「香雨」入会。令和2年同人。第一回「香雨」評論賞エッセイ部門受賞。令和3年第三回「香雨」新雨賞受賞。令和4年第十回俳句四季新人賞受賞。第三回「香雨」評論賞評論部門受賞。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【2022年11月の火曜日☆赤松佑紀のバックナンバー】
>>〔1〕氷上と氷中同じ木のたましひ 板倉ケンタ
>>〔2〕凍港や旧露の街はありとのみ 山口誓子
>>〔3〕境内のぬかるみ神の発ちしあと 八染藍子
>>〔4〕舌荒れてをり猟銃に油差す 小澤實
【2022年11月の水曜日☆近江文代のバックナンバー】
>>〔1〕泣きながら白鳥打てば雪がふる 松下カロ
>>〔2〕牡蠣フライ女の腹にて爆発する 大畑等
>>〔3〕誕生日の切符も自動改札に飲まれる 岡田幸生
>>〔4〕雪が降る千人針をご存じか 堀之内千代
【2022年10月の火曜日☆太田うさぎ(復活!)のバックナンバー】
>>〔92〕老僧の忘れかけたる茸の城 小林衹郊
>>〔93〕輝きてビラ秋空にまだ高し 西澤春雪
>>〔94〕懐石の芋の葉にのり衣被 平林春子
>>〔95〕ひよんの実や昨日と違ふ風を見て 高橋安芸
【2022年9月の水曜日☆田口茉於のバックナンバー】
>>〔5〕運動会静かな廊下歩きをり 岡田由季
>>〔6〕後の月瑞穂の国の夜なりけり 村上鬼城
>>〔7〕秋冷やチーズに皮膚のやうなもの 小野あらた
>>〔8〕逢えぬなら思いぬ草紅葉にしゃがみ 池田澄子
【2022年9月の火曜日☆岡野泰輔のバックナンバー】
>>〔1〕帰るかな現金を白桃にして 原ゆき
>>〔2〕ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ なかはられいこ
>>〔3〕サフランもつて迅い太子についてゆく 飯島晴子
>>〔4〕琴墜ちてくる秋天をくらりくらり 金原まさ子
【2022年9月の水曜日☆田口茉於のバックナンバー】
>>〔1〕九月来る鏡の中の無音の樹 津川絵理子
>>〔2〕雨月なり後部座席に人眠らせ 榮猿丸
>>〔3〕秋思かがやくストローを嚙みながら 小川楓子
>>〔4〕いちじくを食べた子供の匂ひとか 鴇田智哉
【2022年6月の火曜日☆杉原祐之のバックナンバー】
>>〔1〕仔馬にも少し荷を付け時鳥 橋本鶏二
>>〔2〕ほととぎす孝君零君ききたまへ 京極杞陽
>>〔3〕いちまいの水田になりて暮れのこり 長谷川素逝
>>〔4〕雲の峰ぬつと東京駅の上 鈴木花蓑
【2022年6月の水曜日☆松野苑子のバックナンバー】
>>〔1〕でで虫の繰り出す肉に後れをとる 飯島晴子
>>〔2〕襖しめて空蟬を吹きくらすかな 飯島晴子
>>〔3〕螢とび疑ひぶかき親の箸 飯島晴子
>>〔4〕十薬の蕊高くわが荒野なり 飯島晴子
>>〔5〕丹田に力を入れて浮いて来い 飯島晴子
【2022年5月の火曜日☆沼尾將之のバックナンバー】
>>〔1〕田螺容れるほどに洗面器が古りし 加倉井秋を
>>〔2〕桐咲ける景色にいつも沼を感ず 加倉井秋を
>>〔3〕葉桜の夜へ手を出すための窓 加倉井秋を
>>〔4〕新綠を描くみどりをまぜてゐる 加倉井秋を
>>〔5〕美校生として征く額の花咲きぬ 加倉井秋を
【2022年5月の水曜日☆木田智美のバックナンバー】
>>〔1〕きりんの子かゞやく草を喰む五月 杉山久子
>>〔2〕甘き花呑みて緋鯉となりしかな 坊城俊樹
>>〔3〕ジェラートを売る青年の空腹よ 安里琉太
>>〔4〕いちごジャム塗れとおもちゃの剣で脅す 神野紗希
【2022年4月の火曜日☆九堂夜想のバックナンバー】
>>〔1〕回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア 豊口陽子
>>〔2〕未生以前の石笛までも刎ねる 小野初江
>>〔3〕水鳥の和音に還る手毬唄 吉村毬子
>>〔4〕星老いる日の大蛤を生みぬ 三枝桂子
【2022年4月の水曜日☆大西朋のバックナンバー】
>>〔1〕大利根にほどけそめたる春の雲 安東次男
>>〔2〕回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア 豊口陽子
>>〔3〕田に人のゐるやすらぎに春の雲 宇佐美魚目
>>〔4〕鶯や米原の町濡れやすく 加藤喜代子
【2022年3月の火曜日☆松尾清隆のバックナンバー】
>>〔1〕死はいやぞ其きさらぎの二日灸 正岡子規
>>〔2〕菜の花やはつとあかるき町はつれ 正岡子規
>>〔3〕春や昔十五万石の城下哉 正岡子規
>>〔4〕蛤の吐いたやうなる港かな 正岡子規
>>〔5〕おとつさんこんなに花がちつてるよ 正岡子規
【2022年3月の水曜日☆藤本智子のバックナンバー】
>>〔1〕蝌蚪乱れ一大交響楽おこる 野見山朱鳥
>>〔2〕廃墟春日首なきイエス胴なき使徒 野見山朱鳥
>>〔3〕春天の塔上翼なき人等 野見山朱鳥
>>〔4〕春星や言葉の棘はぬけがたし 野見山朱鳥
>>〔5〕春愁は人なき都会魚なき海 野見山朱鳥
【2022年2月の火曜日☆永山智郎のバックナンバー】
>>〔1〕年玉受く何も握れぬ手でありしが 髙柳克弘
>>〔2〕復讐の馬乗りの僕嗤っていた 福田若之
>>〔3〕片蔭の死角から攻め落としけり 兒玉鈴音
>>〔4〕おそろしき一直線の彼方かな 畠山弘
【2022年2月の水曜日☆内村恭子のバックナンバー】
>>〔1〕琅玕や一月沼の横たはり 石田波郷
>>〔2〕ミシン台並びやすめり針供養 石田波郷
>>〔3〕ひざにゐて猫涅槃図に間に合はず 有馬朗人
>>〔4〕仕る手に笛もなし古雛 松本たかし
【2022年1月の火曜日☆菅敦のバックナンバー】
>>〔1〕賀の客の若きあぐらはよかりけり 能村登四郎
>>〔2〕血を血で洗ふ絨毯の吸へる血は 中原道夫
>>〔3〕鉄瓶の音こそ佳けれ雪催 潮田幸司
>>〔4〕嗚呼これは温室独特の匂ひ 田口武
【2022年1月の水曜日☆吉田林檎のバックナンバー】
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな 蜂谷一人
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる 岸本葉子
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎 神野紗希
【2021年12月の火曜日☆小滝肇のバックナンバー】
>>〔1〕柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
>>〔2〕内装がしばらく見えて昼の火事 岡野泰輔
>>〔3〕なだらかな坂数へ日のとある日の 太田うさぎ
>>〔4〕共にゐてさみしき獣初しぐれ 中町とおと
【2021年12月の水曜日☆川原風人のバックナンバー】
>>〔1〕綿入が似合う淋しいけど似合う 大庭紫逢
>>〔2〕枯葉言ふ「最期とは軽いこの音さ」 林翔
>>〔3〕鏡台や猟銃音の湖心より 藺草慶子
>>〔4〕みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど 堀田季何
>>〔5〕ともかくもくはへし煙草懐手 木下夕爾
【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】
>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し 芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ 芭蕉
>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉 芭蕉
>>〔4〕埋火もきゆやなみだの烹る音 芭蕉
>>〔5-1〕蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【前編】
>>〔5-2〕蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【後編】
【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】
>>〔1〕秋灯机の上の幾山河 吉屋信子
>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子
>>〔3〕後輩の女おでんに泣きじゃくる 加藤又三郎
>>〔4〕未婚一生洗ひし足袋の合掌す 寺田京子
【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】
>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊 杉田久女
>>〔2〕鶴の来るために大空あけて待つ 後藤比奈夫
>>〔3〕どつさりと菊着せられて切腹す 仙田洋子
>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒 山口青邨
【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】
>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり 夏目漱石
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな 永田耕衣
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】