螢とび疑ひぶかき親の箸
飯島晴子
昭和45年の作。晴子は49歳。第一句集『蕨手』に収められている。
晴子の全句集には「螢」の季語で作っている句が、九句ある。
螢とび疑ひぶかき親の箸 『蕨手』
親友や螢の池をあひへだて 『春の蔵』
この人のうしろおびただしき螢 『春の蔵』
螢待つスポーツカーに寄りかかり『寒晴』
螢の夜老い放題に老いんとす 『寒晴』
いつまでか這ふ胸もとの一螢火 『儚々』
螢火にすり抜けらるる身の薄さ 『儚々』
手に当りこつんと源氏螢かな 『平日』
蹌踉と螢柱に依りにけり 『平日』
見ていくと、掲句の「螢とび」以外の句は、すぐ景が浮かび分かりやすい。
掲句も、「螢とび疑ひぶかき親」までは、よく分かる。
上から読んで「螢とび疑ひぶかき親」・・・ふむふむ・・・。螢の飛んでいる夜、疑いぶかいのは、親。疑われているのは、たぶん娘の晴子。螢の夜だから、恋愛に絡むことかな・・・。
けれど、そこで、突如「箸」がでてくるので、「疑ひぶかき親の箸」となる。食卓の上で、どれを食べようかと迷っている、お行儀の悪い「迷い箸」の映像が浮かんでしまった。それで頭の中が混乱してしまう。
もう一度読むと、「疑いぶかき」を親と箸にかけて、解釈してしまっているようだ。何回か読み直して、そうか、景としては、螢の夜の、家庭の食卓を思えばいい。親が迷い箸をしている、ということなのだろう、と整理がついた。
晴子も「王朝の嫋々たる情緒とは何のかかわりもない、貧乏性な句」と言っている。(昭和50年8月・俳句とエッセイ)
飯田龍太はこの句について、
「肉親の絆の、ある陰湿な断面を、一種の無言劇としてとらえた作品である。特に「箸」といったところが、実景、実景を眼前する鋭い把握である。」(現代俳句全集・五)
と述べている。
龍太の「箸」といったころが、実景を眼前する鋭い把握だとしていていることに賛成だ。
けれど、この句の要は「疑ひぶかき」の措辞だと思う。この措辞が私の混乱の原因なのだが、これがあるために、人々に膾炙される句になったのだろう。親の箸はどれを食べようかと迷っているだけなのに、それを、強引に「疑いぶかい」としたことで、作者(晴子)の親にたいする深層の心理を、さらした句になったのだ。
ただ、私としては、混乱して時間がかかり、ちょっと疲れる句より、
螢の夜老い放題に老いんとす
のような、すっきりと心に入ってくる句のほうが好きだ。
(松野苑子)
【執筆者プロフィール】
松野苑子(まつの・そのこ)
1947年生まれ。1974年長男誕生の年より作句。「好日」「坂」「鷹」を経て、現在「街」同人会長、俳人協会会員。第8回俳句朝日賞準賞受賞。第62回角川俳句賞受賞。句集に『誕生花』『真水(さみづ)』『遠き帆』。
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