あたゝかな雨が降るなり枯葎
正岡子規
(高浜虚子選『子規句集』岩波文庫)
正岡子規初期の代表句。句中に「暖か」(春)「枯葎」(冬)が同居する。「暖か」の説明は不要だろう。『広辞苑』によると、「枯葎」は「冬枯れした葎」で、「葎」は「八重葎など、荒れ地や野原に繁る雑草の総称。」とある。ところが、角川『合本俳句歳時記』(第四版)では、「葎は金葎のこと」と断定して解説する。一方で、『角川大歳時記』の解説(加藤かな文)では、「枯草」とは異なると断りつつ、「カナムグラと名づけられた蔓草と限定せず、枯れたまま物に絡みつく蔓草と考えればいい。」と解説する。つまりこの句には、句の良さを云々する以前に、季の本意はどっちなのか問題と、葎はなんのことなのか問題が存在するようなのである。まずこれを整理する。
山本健吉は『定本 現代俳句』の巻頭にこの句を置く。やはり「枯葎」の解説に字数を割き、「今日では特定の種類の草の名とされているが、(中略)特定の種類を考えなくてもよい。」と結論づけている。どうやら、先の加藤の解説は山本の解説を踏襲したものと言えそうである。そして、子規自身の用法はどうであるかと言うと、この句に直接言及はないものの、「道の辺や枸杞の実赤き枯葎」(明治27「寒山落木三」)があるのをみると、特定の植物を意味する用法とは思われない。どうも今日では「カナムグラ」と呼ばれる固有種があるが、古くは「金葎」は特定の種をさす用語ではなかったというのがこの話をややこしくさせているのかもしれない。ひとまず、子規の句の「葎」に関しては、合本の解説に基づくものは退けるべきであろう。
そして、どちらの季を本意とするのか問題。改造社『俳諧歳時記』、講談社『カラー図説日本大歳時記』、『角川俳句大歳時記』は、この句を「暖か」(春)、「枯葎」(冬)ともに掲載している(ということは山本健吉『基本季語五〇〇選』も同様)ので、一応両論併記なのだが、『カラー~』は冬に能村登四郞の鑑賞を付しており、冬を本意と見ている。これは、先に引いた山本健吉『定本 現代俳句』の解説で「冬の暖雨が降っているさまである。」と述べていることと首尾一貫している。『合本』も、これを踏まえてか、この句は「枯葎」のみ、すなわち冬の句での所収である。
しかし、大野林火は『近代俳句の鑑賞と批評』において、「山本健吉、楠本憲吉はこの句を「枯葎」(冬)の句とし、蕭条とした風景が冬の暖雨を得て生気(引用者注:山本は「生色」と書く。楠本は未見)を取り戻すと解しているが、早春の句と解すべきである。「あたたかな雨が降るなり」の感動をこそ受取るべき句である。」と述べていて、筆者もこれを支持する。昔、初読で春の句だろうと思ったのに、山本の解説は冬だというので「は?」となったのだが、先の大野も引用部分の後に述べているけれども、子規の「寒山落木」は、明治23年はまだ季題別の整理ではないものの、ほぼ制作順とおぼしき新年春夏秋冬の季節順の配列をとってあり、掲句の前後は春の句なのである。もっといえば、掲句の前は12句、掲句の後は11句がすべて春の句であり、そこにこの句だけが冬というのは非常に考えにくいのである。解説者に読みの自由があるのを否定しているわけではないが、詠んだ側の事実に即すのを基本とするなら、どうも『合本~』はダブルでダメ出しをしなければならないようなのだ。
さて、整理を終えたところで、この句の魅力はどんなところにあるのだろうか。大野は山本説を否定して「あたたかな雨が降るなり」の感動をみるべきと述べるのだけれども、季の判断に引っ張られすぎてはいないだろうか。むしろ、その暖雨と、山本の述べるような、枯葎の中の、生命の発露の兆しあるいは予感のようなものとの呼応が子規の中にあるからこそ、ただ枯れた蔓にあたたかい雨がふる景色を述べたのみに収まらない魅力もつ句になっているのではないだろうか。
(橋本直)
【橋本直のバックナンバー】
>>〔78〕目つぶりて春を耳嚙む処女同志 高篤三
>>〔77〕名ばかりの垣雲雀野を隔てたり 橋閒石
>>〔76〕春宵や光り輝く菓子の塔 川端茅舎
>>〔75〕特定のできぬ遺体や春の泥 高橋咲
>>〔74〕炎ゆる 琥珀の/神の/掌の 襞/ひらけば/開く/歴史の 喪章 湊喬彦
>>〔73〕杜甫にして余寒の詩句ありなつかしき 森澄雄
>>〔72〕野の落暉八方へ裂け 戰爭か 楠本憲吉
>>〔71〕寒天煮るとろとろ細火鼠の眼 橋本多佳子
>>〔70〕ばばばかと書かれし壁の干菜かな 高濱虚子
>>〔69〕大寒の一戸もかくれなき故郷 飯田龍太
>>〔68〕付喪神いま立ちかへる液雨かな 秦夕美
>>〔67〕澤龜の萬歳見せう御國ぶり 正岡子規
>>〔66〕あたゝかに六日年越よき月夜 大場白水郎
>>〔65〕大年やおのづからなる梁響 芝不器男
>>〔64〕戸隠の山より風邪の神の来る 今井杏太郎
>>〔63〕天籟を猫と聞き居る夜半の冬 佐藤春夫
>>〔62〕暗闇の眼玉濡さず泳ぐなり 鈴木六林男
>>〔61〕ラーメン舌に熱し僕がこんなところに 林田紀音夫
>>〔60〕冬真昼わが影不意に生れたり 桂信子
>>〔59〕雛飾る手の数珠しばしはづしおき 瀬戸内寂聴
>>〔58〕枯芦の沈む沈むと喚びをり 柿本多映
>>〔57〕みかんいろのみかんらしくうずもれている 岡田幸生
>>〔56〕あきかぜの疾渡る空を仰ぎけり 久保田万太郎
>>〔55〕自動車も水のひとつや秋の暮 攝津幸彦
>>〔54〕みちのくに生まれて老いて萩を愛づ 佐藤鬼房
>>〔53〕言葉がわからないので笑うてわかれる露草咲いてゐる 種田山頭火
>>〔52〕南海多感に物象定か獺祭忌 中村草田男
>>〔51〕胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋 鷹羽狩行
>>〔50〕ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ なかはられいこ
>>〔49〕彎曲し火傷し爆心地のマラソン 金子兜太
>>〔48〕蜩やチパナスのあたり雲走る 井岡咀芳
>>〔47〕日まはりは鬼の顔して並びゐる 星野麦人
>>〔46〕わが畑もおそろかならず麦は穂に 篠田悌二郎
>>〔45〕片影にこぼれし塩の点々たり 大野林火
>>〔44〕もろ手入れ西瓜提灯ともしけり 大橋櫻坡子
>>〔43〕美しき緑走れり夏料理 星野立子
>>〔42〕遊女屋のあな高座敷星まつり 中村汀女
>>〔41〕のこるたなごころ白桃一つ置く 小川双々子
>>〔40〕海女ひとり潜づく山浦雲の峰 井本農一
>>〔39〕太宰忌や誰が喀啖の青みどろ 堀井春一郎
>>〔38〕草田男やよもだ志向もところてん 村上護
>>〔37〕水底を涼しき風のわたるなり 会津八一
>>〔36〕棕梠の葉に高き雨垂れ青峰忌 秋元不死男
>>〔35〕谺して山ほととぎすほしいまゝ 杉田久女
>>〔34〕夕立や野に二筋の水柱 広江八重桜
>>〔33〕雲の上に綾蝶舞い雷鳴す 石牟礼道子
>>〔32〕尺蠖の己れの宙を疑はず 飯島晴子
>>〔31〕生前の長湯の母を待つ暮春 三橋敏雄
>>〔30〕産みたての卵や一つ大新緑 橋本夢道
>>〔29〕非常口に緑の男いつも逃げ 田川飛旅子
>>〔28〕おにはにはにはにはとりがゐるはるは 大畑等
>>〔27〕鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波
>>〔26〕花の影寝まじ未来が恐しき 小林一茶
>>〔25〕海松かゝるつなみのあとの木立かな 正岡子規
>>〔24〕白梅や天没地没虚空没 永田耕衣
>>〔23〕隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな 加藤楸邨
>>〔22〕幻影の春泥に投げ出されし靴 星野立子
>>〔21〕餅花のさきの折鶴ふと廻る 篠原梵
>>〔20〕ふゆの春卵をのぞくひかりかな 夏目成美
>>〔19〕オリヲンの真下春立つ雪の宿 前田普羅
>>〔18〕同じ事を二本のレール思はざる 阿部青鞋
>>〔17〕死なさじと肩つかまるゝ氷の下 寺田京子
>>〔16〕初場所や昔しこ名に寒玉子 百合山羽公
>>〔15〕土器に浸みゆく神酒や初詣 高浜年尾
>>〔14〕大年の夜に入る多摩の流れかな 飯田龍太
>>〔13〕柊を幸多かれと飾りけり 夏目漱石
>>〔12〕杖上げて枯野の雲を縦に裂く 西東三鬼
>>〔11〕波冴ゆる流木立たん立たんとす 山口草堂
>>〔10〕はやり風邪下着上着と骨で立つ 村井和一
>>〔9〕水鳥の夕日に染まるとき鳴けり 林原耒井
>>〔8〕山茶花の弁流れ来る坂路かな 横光利一
>>〔7〕さて、どちらへ行かう風がふく 山頭火
>>〔6〕紅葉の色きはまりて風を絶つ 中川宋淵
>>〔5〕をぎはらにあした花咲きみな殺し 塚本邦雄
>>〔4〕ひっくゝりつっ立てば早案山子かな 高田蝶衣
>>〔3〕大いなる梵字のもつれ穴まどひ 竹中宏
>>〔2〕秋鰺の青流すほど水をかけ 長谷川秋子
>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風 正岡子規
【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】