きつかけはハンカチ借りしだけのこと 須佐薫子【季語=ハンカチ(夏)】


きつかけはハンカチ借りしだけのこと

須佐薫子
(『復活』)

 世の中には気の利く男性がいるものである。泣いている女性にさり気なくハンカチを差し出す男性。これは、女性の憧れである。本来、ハンカチは女性が持つものである。石鹸の匂いのするハンカチで男性の汗や雨雫を拭うと好感度があがる。昭和の時代には喧嘩した不良少年の血をハンカチで拭い、拳の傷を覆ったものである。

 中世のヨーロッパでは、戦に赴く騎士に女性が「いつもあなたの側におります」という想いを込めてハンカチを渡す。お互いのイニシャル入りのハンカチを交換し、永遠の愛を誓うこともあった。ハンカチは自分の分身であり、それを渡すことは再会の約束でもある。死と隣り合わせの騎士は、崇拝する女性に「あなたのために命をかけて闘います」という誓いを立て、ハンカチを貰うこともあった。騎士には心の女神を選択する自由が与えられており、人妻を指名することも許されていた。国のためではなく女神のために闘う。国を勝利に導き、生きて帰ってきた際には、女神より感謝の意が述べられる。国の英雄となる騎士に「あなたのハンカチを下さい」と言われることは、貴婦人のステータスでもあった。

 日本では、再会の約束として上着や扇を交換する。上着も扇も自身の魂が込められたものである。上着には家紋が縫われているため、ひと時の恋ではなく、お互いの家紋を背負う意志を示すものであった。

 『源氏物語』では、光君が宮中の桜花の宴の夜に出逢った朧月夜と再会の約束の証として扇を交換する。当時の逢引は闇の中で行われる。桜花の宴で口説いた女性が何者であるかは分からない。朧月夜の差し出した扇は「もう一度私に逢いたいのなら探しなさい」というメッセージであった。男性としては、その挑発に乗らないわけにはいかない。桜の夜のおぼろげな出逢い。手探り状態で再会の契りを交わした女性は、政敵の娘であり、東宮(後の朱雀帝)の女御として入内する予定であった。。扇を頼りにして再会を果たした恋は止まらず、二人の関係は露見してしまう。それにより朧月夜は、女御にはなれず女官として出仕する。光君は、東宮の女御となる姫君を犯した罪で須磨へ左遷となる。

 中世のヨーロッパの物語でも、騎士あるいは婦人の残していったハンカチから相手を見付け出し、再会を叶える話がある。政略結婚により別れた恋人同士が数年後に再会し、交換したハンカチを見せ合い、涙を流す話もあった。お互いの想いを託したハンカチ。恋がまだ終わっていなかったことを証明することとなる。ハンカチは恋のアイテムなのである。

 ファッションの一つであるハンカチには、様々なデザインが施された。フランス王妃マリーアントワネットは、ファッションリーダーとして、ハンカチのデザインもプロデュースしている。現在のハンカチが正方形なのは、マリーアントワネットの影響である。

  きつかけはハンカチ借りしだけのこと   須佐薫子

 作者は、昭和23年生まれ。28歳の時に母親の小島花枝の影響を受け「帆船」の創刊同人となる。7年後に藤田湘子主宰の「鷹」に入会し、その4年後には「鷹」新人賞を受賞する。才能を認められ順風満帆であった俳句生活も大病により翳りを見せ始める。回復してからは、試練を乗り越えた奥深い抒情のある句を展開させた。平成12年、52歳の時に母親の死去に伴い「帆船」の主宰となる。掲句は、大病を患っていた際に触れた人々の優しさが背景にある。恋の句として評価されているが、実際には友情だったのかもしれない。

 ハンカチは、会話の切っ掛けにもなるし、再会する約束にもなる。高校時代の頃である。演劇部所属であった私は、夏休み前公開の演劇の資材を買いに走った。衣裳を作るための布、舞台セットの板、ペンキなど。部員がそれぞれの役割の物を購入し、駅前に集合する。化粧道具担当の私は、少し早く待ち合わせ場所に到着していた。しばらくして、ペンキを背負った仲間の男性がやってきた。お調子者の男性部員は苦手な存在であったが、真っ赤な顔より流れる汗を拭ったのは咄嗟の判断である。首筋の汗まで拭いてあげたハンカチをポケットに戻そうとすると、私の手を握り「洗って返すよ」と言う。「その代わりに今日はまだ使っていない僕のハンカチを貸してあげる」と言う。四つ角がきちんと揃えられたブランド物のハンカチであった。当時の田舎の男子は、手も汗も涙も衣服で拭うものだと思っていたので驚いた。彼のお母様が息子のために購入しアイロンを掛けたハンカチであることを察知した。「私も洗って返すね」と答えた。二人だけの秘密ができたことが妙に嬉しかった。後日、私の花柄のハンカチは美しい状態で返却された。私もまた彼のお母様に負けないぐらい美しくアイロンを掛けて返した。だが、その時には彼に好意を持っている親友から恋の相談を受けていた。私は親友の恋を応援するしかなかった。だからハンカチを交換したことは、今も秘密である。お互いに淡い恋心を抱いた瞬間も含めて。

 とある女性は、立食パーティーで男性より注がれたビールをこぼしてしまった。咄嗟に渡されたハンカチで服を拭う。パーティー衣裳に染みを残さないための当然の動作である。ところが直後、ビールの炭酸でむせてしまい、手にしていた男性のハンカチで口を押えた。「ありがとう」と言ってハンカチを返そうとしたら、男性が大笑いした。「僕のハンカチでビールを拭いさらには、吐き出したビールまで吸い込ませる。そのハンカチをぐしゃぐしゃのまま返すって、豪快過ぎて素敵だ」と。女王様気質の女性も苦笑しながら「洗って返します」と言って連絡先を交換したらしい。

 一枚のハンカチから恋が始まることはよくある話である。女性は勿論のこと男性も美しくアイロンを掛けたハンカチを常備すべきである。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


【篠崎央子のバックナンバー】

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>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
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>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中   鷲谷七菜子
>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの   岩永佐保
>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑      大橋敦子
>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
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>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
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>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


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