四月馬鹿ならず子に恋告げらるる
山田弘子
母親にとって子供の恋の話は、複雑な思いが渦巻く。母親の後ばかり付けてきた子供が別の人を追いかけ、崇拝している。それが息子だとしたら応援したい気持ちがありつつも狂おしい気持ちになるだろう。娘の恋もまた母親を不安にさせる。娘には、永遠に処女でいて欲しいものだ。
私が母に恋の話をしたのは、大学生になってからである。一人暮らしを始めて数か月後に失恋し、急に母に甘えたくなった。それまでは疎ましく思っていたのに。突然帰省してきた私を母は慰めてくれなかった。「あなたは男を見る目がないからね。昔からあなたの拾ってきた犬は負け犬ばかり。ちゃんと強い男を見極める目を持ちなさい」と言った。それでも東京に戻る時には「あなたは、優しい娘だから自分よりも弱い人に惹かれるのでしょう。女は惚れられてこそ価値が上がるの。あなたの魅力を分かってくれる人を見つけなさい」と言ってくれた。母はいつも強気なキャリアウーマン。初恋の父の家に乗り込み一族を圧倒した押しかけ女房である。結婚するまで処女であった母は、娘にも貞節であって欲しかったのだろう。ダメな男を渡り歩き、汚れた女になって欲しくなかったのだ。母の気持ちを痛いほど分かっていながらも、文学少女の私は堕落した男を愛し続けた。
思春期の頃、私も姉も母には恋の相談ができなかった。仲の良い男の子の話をするとすぐに「その男の子が好きなのかい。今度家に連れて来なさい」と冷やかすからだ。母親の鋭さなのだろう。食卓で小学生の姉妹の語る少年の話は無邪気だが、娘を奪ってゆく危険性を感じたのだ。冷やかすことで「好きじゃないよ」と言って欲しかったのだ。図星を突かれると否定してしまうのも少女の恋心なのだが。
最初の失恋以後は、母に恋の相談はしていない。その後、俳句を始めるようになり句会で親しくなった先輩女性は母と同世代であった。私と同じ年頃の子供の恋で悩んでいた。私もまた、先輩に母の匂いを感じ恋の悩みを打ち明けた。娘のように私を可愛がってくれた先輩俳人なのだが、所詮は人の恋の話。面白おかしく聞いてくれた。それもまた有難かった。私の気持ちを尊重した上での重くない優しい助言は、先輩の俳句指導に通じるものがあった。
とある句会で、恋の句が出てきた時にその先輩が溜め息をついた。「私、息子に裏切られたの。突然、結婚するって言いだしたのよ。しかも大学時代から交際していた恋人とは違う女性と」と言いだす。確かにそれは驚きだ。事情が分からないまま数年が過ぎた花見吟行の宴会で、先輩に「一流企業に勤めている彼とはいつ結婚するの」と聞かれた。「彼は、転職した後、忙しくなってしまい、数か月逢えていないから別れようと思います」と答えた。すると先輩は「相手の男性はきっと落ち込むと思う。男性はあなたに甘えているのよ。どんなことがあっても待ってくれていると。私の息子が大学時代から交際していた恋人に振られたのは、仕事が忙しくなってしまったからみたい。息子が失恋して落ち込んでいた時に慰めてくれたのが、今のお嫁さん。息子は、恋人に振られたことを母親には相談できなかったのよね。最近になって、お嫁さんから事情を聞き、本当にショックだったわ」と話してくれた。
当時、一流企業に勤めている恋人のことを酔った勢いで姉に話したことがあった。姉はそれを母に告げたらしい。母は、私がその男性をいつ連れてきてもいいように家を掃除していたという。結局、結婚することになったのは、姉にも母にも話していない男性。家族中が驚いた。先輩から母親視点での助言を聞いていたのに息子さんと同じようなことをしてしまった。
四月馬鹿ならず子に恋告げらるる 山田弘子
「四月馬鹿」「万愚節」はとても広がりのある季語である。何でも言ったもの勝ちだ。ちなみに〈万愚節に恋うちあけしあはれさよ 安住敦〉という句もある。エープリルフールディは、恋を嘘に変えてしまいそうな可笑しさがある。
母親にとって子供は、何歳になっても子供のままなのだ。その子供の恋は、母親からの巣立ちを意味する。巣立ちして貰わねば困るのだが寂しさも付きまとう。だからちょっと邪魔をしてみる。子供にしてみれば、恋を阻むものは誰であれ敵である。敵だと思った相手には手のうちは明かせない。母親に恋の相談ができないのは、照れくささもあるのだが、どこかで反対されるのではないかという恐怖もあるからだ。最初の恋は応援してくれると思って相談するのだが、本気の恋となると母親だけでなく誰にも話せないものである。
美空ひばりの母、加藤喜美枝は言っていた。「人生で一番不幸だったのは娘が小林旭と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林旭と離婚したことだ」と。それ以前の恋も母親によって阻まれていたらしい。母親とは恐ろしい。
当該句の恋の子は、作者の立ち上げた「円虹」を引き継いだ山田佳乃主宰だろうか。〈恋を得しテニスラケット卒業す 山田弘子〉は、同時期の作品だ。美少女である娘の恋の話にはまだ、あどけなさがあったのかもしれない。エープリルフールディに母親を驚かせようとしている娘の悪戯心なのだと思い、適当に頷いて聞いていたら、結構本気。いつまでも子供だと思っていた娘が真剣に恋をしている。どう反応して良いのやら。
子供を持たない私には、母親の気持ちは、分かるようで分からない。漠然と困惑させてしまったことだけを認識している。夫と結婚した後、母とは、親友のような関係になり夫婦間の悩みも正直に打ち明けている。時には、私が母の悩み事を聞き助言をすることもある。恋を得て、結婚して、母と分かり合えたのだ。母親にとって子供の恋は、子供が他人になってしまうような衝撃があるのかもしれない。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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>>〔86〕恋人奪いの旅だ 菜の花 菜の花 海 坪内稔典
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>>〔83〕逢曳や冬鶯に啼かれもし 安住敦
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>>〔64〕もう逢わぬ距りは花野にも似て 澁谷道
>>〔63〕目のなかに芒原あり森賀まり 田中裕明
>>〔62〕葛の花むかしの恋は山河越え 鷹羽狩行
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>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな 筑紫磐井
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>>〔55〕青大将この日男と女かな 鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花 中村苑子
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>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 桂信子
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>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書 藤田直子
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