天高し鞄に辞書のかたくある
越智友亮
語学を学習する者にとって辞書に使用感が出てくるのは至上の喜びだ。電子辞書を高校生も使うようになった今、これは古い考え方なのだろうか?
俳句における辞書に相当する歳時記に使用感が出るのももちろん喜びだ。こんなことを書きつつ、普段の句会では電子辞書、句会がない時は歳時記アプリを愛用しており紙の歳時記はわりときれいに保管されている。
英単語を覚えるのに辞書を食べていたというのは本当にあったという話を聞く。私は声に出しながらボールペンで単語をひたすら書き、使い切ったボールペンの束を見て充足感に浸ったものだ。今の受験生たちはどうやって英単語を覚えているのだろうか。最近私が夢中になっているPodcast/YouTube番組「ゆる言語学ラジオ」の水野太貴(1995年生)は『英単語ターゲット1900』の全単語の語源を同書に書き込んでいたという。これは楽しかっただろうと思う。暗記というのは苦痛を覚えやすい作業だが、自分なりの楽しみポイントを見つけられたらこんなにお得な話はない。
天高し鞄に辞書のかたくある
「辞書」とはっきり書いているので六法全書ということはないだろう。これから外国語を学ぶのだ。国語辞典や漢和辞典かもしれない。科目はどうであれこれから新しい学びが始まるのだ。入学や進級は春。状況だけ考えると入学してから秋まで勉強しなかったととることもできるが、そうではないことを季語が語っている。
「天高し」がその志の高さを示しているようでもあり、目指す場所の遠さへの畏怖ともとれる。入学したての春ではなく秋の季語である点が作者独自のタイミングを語っていて個性である。
「かたく」が、ひらがな表記で含みがある。まだ使い込んでいない辞書そのものの硬さを真っ先に考えるべきではあるが、学び続ける意志の堅さ、学問そのものの難しさ(難し)を重ねることができる。「かたし」ではあるが意味にはちょっとした柔軟性があるわけだ。
「かたく」のあとに「ある」がくる点には心の働きが感じられる。ただ辞書が物理的に硬いだけなら「かたし」で充分に伝わるからだ。存在を述べることで天高しとの対比が実感を持って描かれる。
学問と天高し。こう書いてしまうと簡単なようなのだが辞書のかたさのおかげで平凡な取り合わせの域を超えている。硬い辞書の角をとり、手垢や書き込みで真っ黒にするような学問への取り組み。「もう遅いよ!」の声も聞こえてきそうだが私も挑戦してみたくなる力をこの句から受け取った。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
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【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔70〕また次の薪を火が抱き星月夜 吉田哲二
>>〔69〕「十六夜ネ」といった女と別れけり 永六輔
>>〔68〕手繰るてふ言葉も旨し走り蕎麦 益岡茱萸
>>〔67〕敬老の日のどの席に座らうか 吉田松籟
>>〔66〕秋鯖や上司罵るために酔ふ 草間時彦
>>〔65〕さわやかにおのが濁りをぬけし鯉 皆吉爽雨
>>〔64〕いちじくはジャムにあなたは元カレに 塩見恵介
>>〔63〕はるかよりはるかへ蜩のひびく 夏井いつき
>>〔62〕寝室にねむりの匂ひ稲の花 鈴木光影
>>〔61〕おほぞらを剝ぎ落したる夕立かな 櫛部天思
>>〔60〕水面に閉ぢ込められてゐる金魚 茅根知子
>>〔59〕腕まくりして女房のかき氷 柳家小三治
>>〔58〕観音か聖母か岬の南風に立ち 橋本榮治
>>〔57〕ふところに四万六千日の風 深見けん二
>>〔56〕祭笛吹くとき男佳かりける 橋本多佳子
>>〔55〕昼顔もパンタグラフも閉ぢにけり 伊藤麻美
>>〔54〕水中に風を起せる泉かな 小林貴子
>>〔53〕雷をおそれぬ者はおろかなり 良寛
>>〔52〕子燕のこぼれむばかりこぼれざる 小澤實
>>〔51〕紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 津田清子
>>〔50〕青葉冷え出土の壺が山雨呼ぶ 河野南畦
>>〔49〕しばらくは箒目に蟻したがへり 本宮哲郎
>>〔48〕逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花 中西夕紀
>>〔47〕春の言葉おぼえて体おもくなる 小田島渚
>>〔46〕つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子
>>〔45〕鳴きし亀誰も聞いてはをらざりし 後藤比奈夫
>>〔44〕まだ固き教科書めくる桜かな 黒澤麻生子
>>〔43〕後輩のデートに出会ふ四月馬鹿 杉原祐之
>>〔42〕春の夜のエプロンをとるしぐさ哉 小沢昭一
>>〔41〕赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
>>〔40〕結婚は夢の続きやひな祭り 夏目雅子
>>〔39〕ライターを囲ふ手のひら水温む 斉藤志歩
>>〔38〕薔薇の芽や温めておくティーカップ 大西朋
>>〔37〕男衆の聲弾み雪囲ひ解く 入船亭扇辰
>>〔36〕春立つと拭ふ地球儀みづいろに 山口青邨
>>〔35〕あまり寒く笑へば妻もわらふなり 石川桂郎
>>〔34〕冬ざれや父の時計を巻き戻し 井越芳子
>>〔33〕皹といふいたさうな言葉かな 富安風生
>>〔32〕虚仮の世に虚仮のかほ寄せ初句会 飴山實
>>〔31〕初島へ大つごもりの水脈を引く 星野椿
>>〔30〕禁断の木の実もつるす聖樹かな モーレンカンプふゆこ
>>〔29〕時雨るるや新幹線の長きかほ 津川絵理子
>>〔28〕冬ざれや石それぞれの面構へ 若井新一
>>〔27〕影ひとつくださいといふ雪女 恩田侑布子
>>〔26〕受賞者の一人マスクを外さざる 鶴岡加苗
>>〔25〕冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ 川崎展宏
>>〔24〕伊太利の毛布と聞けば寝つかれず 星野高士
>>〔23〕菊人形たましひのなき匂かな 渡辺水巴
>>〔22〕つぶやきの身に還りくる夜寒かな 須賀一惠
>>〔21〕ヨコハマへリバプールから渡り鳥 上野犀行
>>〔20〕遅れ着く小さな駅や天の川 髙田正子
>>〔19〕秋淋し人の声音のサキソホン 杉本零
>>〔18〕颱風の去つて玄界灘の月 中村吉右衛門
>>〔17〕秋灯の街忘るまじ忘るらむ 髙柳克弘
>>〔16〕寝そべつてゐる分高し秋の空 若杉朋哉
>>〔15〕一燈を消し名月に対しけり 林翔
>>〔14〕向いてゐる方へは飛べぬばつたかな 抜井諒一
>>〔13〕膝枕ちと汗ばみし残暑かな 桂米朝
>>〔12〕山頂に流星触れたのだろうか 清家由香里
>>〔11〕秋草のはかなかるべき名を知らず 相生垣瓜人
>>〔10〕卓に組む十指もの言ふ夜の秋 岡本眸
>>〔9〕なく声の大いなるかな汗疹の児 高濱虚子
>>〔8〕瑠璃蜥蜴紫電一閃盧舎那仏 堀本裕樹
>>〔7〕してみむとてするなり我も日傘さす 種谷良二
>>〔6〕香水の一滴づつにかくも減る 山口波津女
>>〔5〕もち古りし夫婦の箸や冷奴 久保田万太郎
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎 神野紗希
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる 岸本葉子
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな 蜂谷一人
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】