ハイクノミカタ

天籟を猫と聞き居る夜半の冬 佐藤春夫【季語=夜半の冬(冬)】


天籟を猫と聞き居る夜半の冬

佐藤春夫
(『能火野人十七音詩抄』1964年)


詩や小説で名高い佐藤春夫が俳句も詠んでいたことは、余り知られていないかもしれない。「能火野人」と号し、昭和39年、満七十二歳の誕生日の記念の会の出席者に配る記念品として出版されたのが『能火野人十七音詩抄』。この句集の序文に拠れば、作家は三十歳のころから句作に親しんでいたようだ。俳句と言わずあえて「十七音詩」と呼ぶのは、既存の俳句へのリスペクトを示しつつ、自分はそれとは違って自由にやる、という態度のあらわれであったかもしれない。たとえば、今や相当問題のある作品だが「永き夜の紅毛竹夫人を去らんとす」の「紅毛竹夫人」に「ダッチワイフ」とルビをふって句に詠み込んでいる。句集の原型となった冊子にはなかったものを後で加えた句で、そのあたり、内輪の会の出席者への露悪趣味による自己演出をしてみせたものと想像される。ホモソーシャル的なサービス精神が匂うし、一方で関悦史のラブドール俳句に先行することおよそ半世紀の時代を先駆けた句、というような言い方もできるのかもしれない。それはさておき、掲句。「天籟」は、風がものにあたって立てる音などの、自然の音をいう。冬の夜中、風の音に耳を澄ませていると、猫もおなじように聞き耳を立てていた、というところだろうか。飼い猫とその飼い主が、同じ方向を向いて同じように猫背で天籟を聞いている姿を想像すると、なんとなく可愛げがあって可笑しい。運悪く佐藤はこの句集を出してわずか一ヶ月後、ラジオ番組の録音中に急逝してしまうのだが、それがなければさらに句作を重ね、公刊の句集を出し、それがいかような作品かはともかく、いまよりは多少世に知られる句があったかもしれない。

橋本直


【橋本直のバックナンバー】

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>>〔61〕ラーメン舌に熱し僕がこんなところに 林田紀音夫
>>〔60〕冬真昼わが影不意に生れたり     桂信子
>>〔59〕雛飾る手の数珠しばしはづしおき 瀬戸内寂聴
>>〔58〕枯芦の沈む沈むと喚びをり      柿本多映
>>〔57〕みかんいろのみかんらしくうずもれている 岡田幸生
>>〔56〕あきかぜの疾渡る空を仰ぎけり  久保田万太郎
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>>〔54〕みちのくに生まれて老いて萩を愛づ  佐藤鬼房
>>〔53〕言葉がわからないので笑うてわかれる露草咲いてゐる 種田山頭火
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>>〔50〕ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ
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>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風       正岡子規


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


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