太る妻よ派手な夏着は捨てちまへ
ねじめ正也
(『蠅取リボン』)
盆休みになると、私の実家では盆用意のついでに衣装箪笥の整理をしたり虫干しをしたりしたものである。季語の「虫干し」は夏の土用の頃だが、古代中国では、七夕に行われていた。陰暦の七夕は現在の8月20日頃である。時折吹く涼しい風が黴臭い書物や饐えた衣服を濯いでゆく。懐かしい書物や衣服に触れることができる楽しい時間でもある。
女性にとって衣服は商売道具みたいなものであり、沢山所有しているのに越したことはない。年齢によって着る服が変わってゆくので自分の歴史の変遷をたどることもできる。どのような体形であれ、似合う服を見つけるのは難しい。服との出会いは恋のように突然で、恋のように終わる。新しい服を買えば古い服は忘れてしまうものだ。恋と違うのは、捨てられないこと。女性は、終わった恋に興味を失う。美しかった想い出として結晶化させてそのまま。余程の事情がない限り再燃することはない。これが服となると再燃することがある。数年前に購入した服を引っ張り出して再び着ることがある。むかし買った服というのは、着てみると若返る気がするものだ。その当時は、しっくりとしなかったのだが、年齢を経て似合ってしまう服もある。
女性は、場面によって着る服を変える。職場用の服、友人と会うための服、恋人と逢うための服、パーティードレスなど。俳句を詠まれる方は、句会用の服も区別していることと思う。人によっては、旅行用の服というのもあるだろう。
数年前、盆踊りに着てゆく浴衣を探していた。毎年踊っているのだが9月になるとどこかにしまい込んで忘れてしまう浴衣。ようやく見付け出した頃には、部屋中に服が散乱しており、虫干しをすることになった。洗えるものは洗ってベランダに干す。色鮮やかな服が熱風に吹かれていた。冷たい視線を感じて振り返ると夫が「もう着られない恥ずかしい服を後生大事に取っておいて、洗濯までして、余計な労力だ」と怒り出す。男性には分からないのだろう。服を捨てられない女性の性というものが。その後、乾いた服を着て鏡の前でファッションショーをしている時も「痛々しくて見ていられない」とか「過去の男との想い出のある服に違いない」とか怒っていた。確かに、胸元の大きく開いた膝丈の花柄のワンピースは、今の私が着て歩けば迷惑防止条例に引っかかるかもしれない。その服を捨てられないのは、想い出とかとも違う。そもそも、誰とのデートの時に着た服なのか覚えていないのだから。ただぼんやりと、あの当時流行っていたとか、高かったとか、いつか着る機会があるかもしれないとか、そんなことを考えていた。そうかと思うと、リゾート地で夫が買ってくれたサンドレスは、ほのかに海の匂いがした。夫も「また海辺を旅行しようか」と呟いた。女性がいつどんな服を着ていたのかをしっかりと記憶しているのは男性の方なのかもしれない。だから記憶にない妻の服を見ると、昔の男に買って貰った服に違いないとか他の男と逢うために買った服だとか決めつけて怒り出すのだ。夫が捨てろという服の多くは、どこか背伸びをしていて似合っていないのだが。それでも夏の終わりには、いつもとは違う自分を演じてみたい時が女性にはあるのだ。
太る妻よ派手な夏着は捨てちまへ ねじめ正也
作者は、詩人で小説家のねじめ正一氏の御父上である。直木賞を受賞した『高円寺純情商店街』にも登場する。高円寺で先代より受け継いだ乾物店を経営し、商店街の人間模様を軽妙に描いた。〈あきなひや蝿取リボン蠅を待つ 正也〉〈町あげてミスコンクール秋蠅殖ゆ 正也〉。リボンもミスコンも可愛らしい響きがあるのだが、蠅を呼び寄せる。乾物店にとって蠅は天敵。それゆえに俳句の題材となった。
家族で営む商店街の店は、昼は商い、夜は仕込み、組合や地域住民とのコミュニケーションも大切だ。俳句は、付き合いの一面もあったと思われる。夜になると句会に出掛けてゆく夫を腕組みしながら送り出す妻。蠅を詠むと店の売り上げに響くと叱る妻は、家を支える大黒柱のような存在であった。子育てをしながら家事をこなし、店を切り盛りする妻には、頭が上がらない。作者はそんな昭和の夫であったことが想像される。
女性は、結婚すると太るものである。太らなければ、家を支えられないからだ。夫にとって妻のふくよかな胸や腰は、母親に守られていた頃の甘い記憶を思わせる。自分よりも強く逞しくあらねばならない妻が露出度のたかい派手な服を後生大事に保管していたら、怒りたくもなるものだ。妻の派手な服は、他の男性を誘惑したい願望に見えてしまうのだ。そんなことは無いのだが。
女性がお洒落をするのは、男性のためではない。自分のためだ。どんなに年齢を重ねても若く華やかでありたいのが女性だ。同性の友人とお洒落を競い合った少女期の心をいつまでも持っている。近年では、自己承認欲求という言葉があるが、女性とは見栄っ張りな生き物なのである。見栄を張ることを忘れたら死があるのみである。強く生きるために精一杯のお洒落をする。満たされることのない虚栄心を追い続ける一方で貧乏性な一面もある。衣食住を司る女性は、母親から生活のやり繰りを学ぶ。経済的に裕福になってもリサイクル、リメイクを忘れない。こればかりは本能としか言いようがない。
前日の残り物の料理を捨てずに取っておいて、翌日に全く別の料理に作り変えて食卓に出すことがある。同じように着られなくなった露出度のたかい派手な服もほんの少しの工夫で再度身につけることが可能となる。私などは、上着やショールでごまかしたり、裁断してリボンにしたりすることもある。だから後生大事に取っておくのだ。
とある女性は、ブランド柄の傘が台風で壊れた後、その布地をスカーフとして再利用していた。映画『風と共に去りぬ』のスカーレットは、戦後の貧窮のなかでベルベットのカーテンをドレスに仕立て直す。服に限らず、残しておくと役に立つこともあるのだ。
私の句友の着物美人は、古い着物の布や端切れで布絵を作成している。これがまた芸術的である。「愛の火曜日」句会の高点句作者なのだが、恋の句の上手な女性は服を捨てないのだ。
女性にとって、過去の恋は人生の肥やしでしかない。夫としては、過去の恋や若さにしがみつくように服を捨てない妻が許せないのであろう。夫の目には、派手な夏服よりも、染みだらけのアッパッパを着て、太った体をより太く見せている妻の方が魅力的に見えるのだ。残念ながら、夫のほのかな嫉妬や独占欲は妻には伝わらないものなのである。
(篠崎央子)
【篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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