ががんぼの何が幸せ不幸せ
今井肖子
幸せのハードルは低い方がいい。
俳句仲間が言い放った言葉に別の仲間が頭をぶん殴られたような衝撃を受け、いっとき「〇〇ちゃんの名言」として伝道師のように「幸せのハードルは―」と触れ回っていた。私も初めて聞いたときは「なるほどなぁ」と感心した。思わず手元の清記用紙にメモしたほど。確かにそうだ。上を見たらきりがない。収入、社会的地位、容貌、性格、生活環境、感受性、知性、身体能力、社交性など、もっともっと高いレベルに達すれば今よりもずっと幸福になれるのに。そう考えるよりも、朝の散歩でカルガモの親子を二組も見かけたことや、セール価格の素材で結構美味しい料理が作れたことや、句会で沢山点を取ったこと(これはハードル高め)で幸せいっぱいな方が日々の暮しは明るく彩られる。私なんぞは昼寝中の猫に擦り寄り、「こうしているのがいっちばん幸せだにゃーん」とゴロゴロするのが至福のひとときだ。ただ、「幸せのハードルは低い方がいい」は一面の真理があるけれど、なんでもかんでもハードルを下げればいいものではない、とは思う。少し高く設定した幸せのバーへ向けてジャンプを続ければ、いつかそのバーを掴めたときには幸せのほかに筋力というボーナスポイントもついて来るのだから。
話は変わるが、人から秘かに嗤われているように感じていた時期があった。周囲の人たちが私を不幸者と憐れみつつ面白がって見ている―、気を抜くとそんな思いが踵から上って来て水銀のように背面に張り付く。ある夕べ、仕事帰りに横断歩道を渡りながらふと「私、別に幸せを求めていない」と気づいた。考えを重ねての結論でもなく、突然降って湧いた気づきだったので自分でも驚いた。開き直りとも違って、その瞬間から気持ちが楽になった訳でもない。ただ、「幸せでなくてもいい」という考えが揚げたての唐揚げみたいに鼻先に差し出され、その湯気を浴びたままふわふわと歩いたのだった。
久しぶりに開いた句集で掲句と目が合ったら、その時の奇妙な気持ちが出し抜けに蘇った。何が幸せで何が不幸せかなんて誰に答えられよう? 幸不幸を区切るラインは壁に止まったががんぼと同じでゆらゆらゆらゆら、定まらない。「ががんぼの何が」と言うならば、か細くて長い六本足と間延びした胴体は薄気味悪くて不憫だけれど、蚊や蠅と違って薄気味悪がられても叩き殺されないのは不幸中の幸いかもしれない。当のががんぼに尋ねたとしても、彼らはただががんぼであることを全うしているだけなので当惑するに違いない。「何が幸せ不幸せ」と問うことが少しせつなく、それでいてくすくす笑いたくなる。ががんぼ効果なのだろう。
(『花もまた』角川書店 2013年より)
(太田うさぎ)
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【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』。
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