自転車の片足大地春惜しむ
松下道臣
自転車に乗れるようになったのはいつのことだったかと記憶を辿ったら、どう短く見積もっても半世紀以上前ということに気づき、ゾッとなった。まだ気を取り直せないでいる。考えなければよかった。
自転車に乗れる、とは補助輪のない二輪で走れることだ、勿論。私は運動神経はないし、怖がりなので、補助輪が外れるまでよその子よりも時間がかかったかもしれない。ある日、バランスの取り方を体が漸く会得したのだろう、不意に補助輪なしですいすい走れるようになっちゃった。あの時の「やったぜ!」という達成感よりも「あれれ?出来ちゃった?」という不思議さが勝った感覚はまだ体の奥底に残っている。地に足が付いていないような感じ、と喩えたいところだが、それが正しい自転車の乗り方なので困ってしまう。
そんなことを思い出したのは掲句を読んだからで、「春惜しむ」という季語の感傷的な要素が作用したらしい。「自転車の片足大地」は片言めいてもいるが、かりそめに止まっている状態であることは十分に伝わる。それに、「片足を地に」とでもすれば文法的にも分かり易いだろうけれど、印象はぼやけただろう。「大地」の切れが雄々しいので、惜春の情感がより強調される仕組みになっている。
俳句の原石は日常茶飯事に埋まっているものだ。この句も然り。信号が青に変わるのを待つなど僅かな時間など、自転車に乗れば片足立ちの姿勢になるのは二度や三度はある。しかし考えてみれば歩いている時はこんな格好は出来ない。当たり前のことに思い至ったとき、片足は靴底を通して地面との触れ合いを初めて感じたのではないだろうか。ただの舗道だったとしても、今自分が立っているのはまさしく大地なのだ、という実感を捉えたのではないだろうか。片足は大地を感じ、もう片足はふらりと宙に浮いている。そんなアンバランスな姿勢のまま惜春の情にかられているところに俳諧味がある。両足をしっかり地につけて春を惜しんでも一向にかまわないけれど、詩趣は湧かない。自分が普段から自転車で走り回っているせいか、妙にほだされた一句。
(『二字』 ふらんす堂 2022年より)
(太田うさぎ)
【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』。
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