蛇の衣傍にあり憩ひけり
高濱虚子
このところ朝の散歩が続いている。散歩コースの川に今年も軽鴨の親子が現れたからだ。七時前に通りかかると、鴨の子たちが母鴨に見守られながらぎこちなく川を下る姿が見られる。その愛くるしさについつい毎朝足を運んでしまう。今朝はよく晴れたせいか流れの中ほどの石の上で全員大人しく日光浴をしていた。しばし眺めてから歩を進めると、先の方で二人の男女が柵から川を覗き込んでいる。口から洩れる言葉はどうやら感嘆しているようだ。興味を引かれて見下ろしても水面は静かなばかり。「何がいるんですか?」と尋ねたら、「ダッピ」とすぐ下を指す。ダッピ??指の示す先を目で追うと、川岸から上がる石積みの壁に蛇の殻が長々と掛かっているのであった。蛇と言っても青大将らしい。朝日に白々と透けて見事なものだ。抜け殻は細い尾から始まって塀に嵌め込んだ石を数段登り、途中で捩れもしながら頭の部分は排水口に突っ込んだものか確かめられなかった。「こんなに長いのは見たことないよ」、「3メートルはあるかなあ」、「今朝脱いだのかね」などと話している二人に「この辺に蛇出るんですか?」と尋ねると、「いるいる」、「この辺によく出るよ」、蛇の一大集落があると言わんばかりに首を縦に振る。脱皮したての青大将が今にも這い出て来そうでちょっと不安である。「鴨の子供も食べちゃうんですかねえ・・・」ふと呟いたのは、軽鴨の子供たちが数日前に八羽から六羽に減ったのが気になっていたからだ。「ああ、食べちゃうんじゃない」。それが自然の摂理とばかりに女の人が素っ気なく答え、「宝くじ買わなきゃ」とカラカラ笑って去って行った。
籤運のない私は宝くじを買う代わりに、「蛇の衣」で季語検索をしてみた。出て来る、出て来る。蛇の衣で山を築けそうだ。抜け殻の状態を詠む、抜け殻のある場所やそのときの気象を詠む、脱皮する蛇の気持ちになって詠む、蛇の象徴性から詠む、アプローチとしては凡そこんなところかと思うが、虚子の句はどれにも当てはまらない。他の句を読んでもこんなヘンテコな気分にはならない。「渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句等」(『虚子五句集(下)』大岡信解説 岩波文庫)と語った虚子が自ら実践したような句だ。蛇の衣などに動じず「憩ひけり」と泰然自若としているところに妙な可笑しみがあるのだが、よくよく考えてみるとこの句を試しに「傍に蛇の衣あり」と順番を入れ替えたり、「蛇の衣傍にある憩ひかな」と切れ字を替えると面白味がなくなる。私にはそう思える。考え抜かれた構成だと思う。その上での腑抜け具合が高浜虚子と言う人なのだ。そして、主題になっているのは蛇の衣ではなく休憩している自分である。自意識高いじゃん!とつい突っ込みたくなる。そんな虚子の傍では蛇の衣も飼いならされた犬のようだ。やれやれ、汲めども尽きぬ虚子の泉よ。
(『虚子編 季寄せ』三省堂より)
(太田うさぎ)
【執筆者プロフィール】
太田うさぎ(おおた・うさぎ)
1963年東京生まれ。現在「なんぢや」「豆の木」同人、「街」会員。共著『俳コレ』。2020年、句集『また明日』。
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>>〔10〕略図よく書けて忘年会だより 能村登四郎
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】