命より一日大事冬日和
正木ゆう子
俳号は[i]の音を入れようと決めてから考えた。名乗る瞬間に笑顔になるからだ。「はい、チーズ!」「1+1は?(2!)」のような効果である。「い」はりんりんと鳴る鈴のように心を躍らせるきっかけを与えてくれる。母音に「い」をもつ音を発音すると口角が上がり、笑顔を思い出させてくれる。「痛い」と声に出すと口の端から痛みのもとが出て行くような気がする。
「あ」は戦隊ものでいえば赤、甘え上手な女の子の名前に似合う。全てを包み込む母。優等生。「う」はスナフキンのような哲学的旅人。「うん」の吞み込む音。考え中。噴出前にエネルギーをためているところ。「え」は白い襟の服を着た姿勢の美しい先生。ちゃっかり賢い。えへん。えへへ。「お」は男前。白、青、黒。本当に感情が溢れた時に出てしまう感嘆詞。声域でいえばバリトン。
各母音の勝手なイメージを並べてみた。日本全国で通じる現代日本語には母音が5つしかないのでこんなに膨らませることができるが、あまり多かったら固定したイメージは持ちにくいであろう。世界で一番母音の多い言語は中央ベトナムのセダン族の言語で、55あるという。50音より多い…。最も少ないのはアブハズ語(ジョージア国内のアブハジア自治共和国)で、2つだけ。一方子音は60前後ある。音声を聞いてみたらほぼ子音だった。
命より一日大事冬日和
命より大事なものなどない。では命とは?心臓の鼓動を思ったが、辞書をひいてみると生涯、生命、大切なものなどと記載がある。命とは時間を伴う概念のようである。この句でいう命とは生涯のことであろう。生れてから果てるまで、どのような生き方をするのかも大事だが、それよりも今この一日を丁寧に過ごすことの方が大切なのだと言い切っている。
句集の中でこの句が入っている「狼の祭」という章にはコロナ禍と闘病の句が並ぶ。「入院」の前書きがある〈癌ぐらゐなるわよと思ふ萩すすき〉に始まる一連の作品では入院、手術を経て快復したと思われるまでの日々が綴られている。それを踏まえると冬日和が「命より一日大事」の結論に至った切実さを出過ぎることなく表現し、奥深く語りかけてくる。
「一日」は「いちにち」と読むか「ひとひ」と読むか俳句ではかなりの確率で一旦迷うが、この句では迷いなく「いちにち」と読めた。字数のこともあるが、[i]音のたたみかけが「いちにち」と音読したくなる気持ちを誘ったのだ。こういう導きを私は格好いいと思う。
先のことばかり考え、時には過去にとらわれて目の前のことをなおざりにしてはいないか。過去にはそんなこともあったかもしれないが、いまは今日一日のことを大事に過ごしていくしかない。
(吉田林檎)
【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)。
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【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔76〕冬の水突つつく指を映しけり 千葉皓史
>>〔75〕花八つ手鍵かけしより夜の家 友岡子郷
>>〔74〕蓑虫の蓑脱いでゐる日曜日 涼野海音
>>〔73〕貝殻の内側光る秋思かな 山西雅子
>>〔72〕啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋櫻子
>>〔71〕天高し鞄に辞書のかたくある 越智友亮
>>〔70〕また次の薪を火が抱き星月夜 吉田哲二
>>〔69〕「十六夜ネ」といった女と別れけり 永六輔
>>〔68〕手繰るてふ言葉も旨し走り蕎麦 益岡茱萸
>>〔67〕敬老の日のどの席に座らうか 吉田松籟
>>〔66〕秋鯖や上司罵るために酔ふ 草間時彦
>>〔65〕さわやかにおのが濁りをぬけし鯉 皆吉爽雨
>>〔64〕いちじくはジャムにあなたは元カレに 塩見恵介
>>〔63〕はるかよりはるかへ蜩のひびく 夏井いつき
>>〔62〕寝室にねむりの匂ひ稲の花 鈴木光影
>>〔61〕おほぞらを剝ぎ落したる夕立かな 櫛部天思
>>〔60〕水面に閉ぢ込められてゐる金魚 茅根知子
>>〔59〕腕まくりして女房のかき氷 柳家小三治
>>〔58〕観音か聖母か岬の南風に立ち 橋本榮治
>>〔57〕ふところに四万六千日の風 深見けん二
>>〔56〕祭笛吹くとき男佳かりける 橋本多佳子
>>〔55〕昼顔もパンタグラフも閉ぢにけり 伊藤麻美
>>〔54〕水中に風を起せる泉かな 小林貴子
>>〔53〕雷をおそれぬ者はおろかなり 良寛
>>〔52〕子燕のこぼれむばかりこぼれざる 小澤實
>>〔51〕紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 津田清子
>>〔50〕青葉冷え出土の壺が山雨呼ぶ 河野南畦
>>〔49〕しばらくは箒目に蟻したがへり 本宮哲郎
>>〔48〕逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花 中西夕紀
>>〔47〕春の言葉おぼえて体おもくなる 小田島渚
>>〔46〕つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子
>>〔45〕鳴きし亀誰も聞いてはをらざりし 後藤比奈夫
>>〔44〕まだ固き教科書めくる桜かな 黒澤麻生子
>>〔43〕後輩のデートに出会ふ四月馬鹿 杉原祐之
>>〔42〕春の夜のエプロンをとるしぐさ哉 小沢昭一
>>〔41〕赤い椿白い椿と落ちにけり 河東碧梧桐
>>〔40〕結婚は夢の続きやひな祭り 夏目雅子
>>〔39〕ライターを囲ふ手のひら水温む 斉藤志歩
>>〔38〕薔薇の芽や温めておくティーカップ 大西朋
>>〔37〕男衆の聲弾み雪囲ひ解く 入船亭扇辰
>>〔36〕春立つと拭ふ地球儀みづいろに 山口青邨
>>〔35〕あまり寒く笑へば妻もわらふなり 石川桂郎
>>〔34〕冬ざれや父の時計を巻き戻し 井越芳子
>>〔33〕皹といふいたさうな言葉かな 富安風生
>>〔32〕虚仮の世に虚仮のかほ寄せ初句会 飴山實
>>〔31〕初島へ大つごもりの水脈を引く 星野椿
>>〔30〕禁断の木の実もつるす聖樹かな モーレンカンプふゆこ
>>〔29〕時雨るるや新幹線の長きかほ 津川絵理子
>>〔28〕冬ざれや石それぞれの面構へ 若井新一
>>〔27〕影ひとつくださいといふ雪女 恩田侑布子
>>〔26〕受賞者の一人マスクを外さざる 鶴岡加苗
>>〔25〕冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ 川崎展宏
>>〔24〕伊太利の毛布と聞けば寝つかれず 星野高士
>>〔23〕菊人形たましひのなき匂かな 渡辺水巴
>>〔22〕つぶやきの身に還りくる夜寒かな 須賀一惠
>>〔21〕ヨコハマへリバプールから渡り鳥 上野犀行
>>〔20〕遅れ着く小さな駅や天の川 髙田正子
>>〔19〕秋淋し人の声音のサキソホン 杉本零
>>〔18〕颱風の去つて玄界灘の月 中村吉右衛門
>>〔17〕秋灯の街忘るまじ忘るらむ 髙柳克弘
>>〔16〕寝そべつてゐる分高し秋の空 若杉朋哉
>>〔15〕一燈を消し名月に対しけり 林翔
>>〔14〕向いてゐる方へは飛べぬばつたかな 抜井諒一
>>〔13〕膝枕ちと汗ばみし残暑かな 桂米朝
>>〔12〕山頂に流星触れたのだろうか 清家由香里
>>〔11〕秋草のはかなかるべき名を知らず 相生垣瓜人
>>〔10〕卓に組む十指もの言ふ夜の秋 岡本眸
>>〔9〕なく声の大いなるかな汗疹の児 高濱虚子
>>〔8〕瑠璃蜥蜴紫電一閃盧舎那仏 堀本裕樹
>>〔7〕してみむとてするなり我も日傘さす 種谷良二
>>〔6〕香水の一滴づつにかくも減る 山口波津女
>>〔5〕もち古りし夫婦の箸や冷奴 久保田万太郎
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎 神野紗希
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる 岸本葉子
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな 蜂谷一人
【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】