夏痩せて瞳に塹壕をゑがき得ざる
三橋鷹女
(『三橋鷹女全集』立風書房)
初出句集は鷹女の第一句集『向日葵』(昭和15年10月刊)。大正13年から昭和15年までの約2千句から厳選されている。翌年には同じ期間の作から選んだ第二句集『魚の鰭』を出しているので、この二冊はセットで見るべきであろう。一応編年体だが、そこは鷹女でテーマ詠としてまとめてあり、日々の日記の延長のような配列ではない。掲句は句集の掉尾の一つ手前の節、「汗し思ふ」八句中の一。
自叙で鷹女は「真夏の日を逐うて咲くひたむきな向日葵の花を好もしく思ひ、句集は「向日葵」と名付けた。」というが、この「汗し思ふ」中には「亡びゆく国あり大き向日葵咲き」という不吉な句などもあって、必ずしも向日葵の好日的な印象のままの句集ではないように思われる。やや俯瞰すると、句集の出た昭和14、15年あたりは日中戦争真っ最中なのだが、両国の「亡び」をどうこう言える時期でもなく、この句で鷹女がどの「国」を念頭に置いたのか、この句からだけではにわかに量りがたい。欧州ではナチスドイツが軍事的に優位にあって、ポーランドに侵攻しベネルクス三国とフランスをわずか一ヶ月ほどで占領してしまったころでもあるが、それを詠んだと読める要素はみあたらない。「汗し思ふ」八句すべてを並べると、
明易し戦場はろか頭に展け
明易し泥濘をおもひ壕をゑがき
汗し思ふますらたけをはみいくさは
向日葵を咲かせ心に兵がある
大き花の向日葵咲けるをみならに
亡びゆく国あり大き向日葵咲き
向日葵黄に一碗の水を尊み住めり
夏痩せて瞳に塹壕をゑがき得ざる
とあって、三句目に「ますらたけを」「みいくさ」とあるので、この句は皇軍を詠んだとわかる。そしてこの八句を戦火想望と銃後の連作とみれば、日中戦争の詠ということができるだろう。そう考えると、この「国」というのは、かつて「眠れる獅子」と言われた清王朝のような、偉大な歴史をもつ中国というイメージの終焉をいうものであったろうか。そのあたりの謎は残るのだが、私的により興味深いのは、向日葵が咲く前には頭に描けていた「戦場」や「壕」が、花が咲いて最後には「ゑがき得ざる」となっているところ。他のテーマ詠でも例えば「爆撃機に乗りたし梅雨のミシン踏めり」と詠む一方で「戦争はかなし簾を垂れて書く」(共に「梅雨あざみ」)とも詠む鷹女の戦争観全般は改めて丁寧に読み解く必要があると思うけれども、ひとまず今回取り上げたこの一連の中のみで考えれば、全から個に立ち戻った、というラインで解釈することが可能ではあろう。この句集でもっとも人口に膾炙している句はなんといっても「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」なのだが、鷹女には同じ句集に同じ上五でこんな句もある。これが新興俳句弾圧のころに出ていたと思うと、なかなかスリリングな句集といえるのではないか。
(橋本直)
【三宅やよいさんの『鷹女への旅』はこちら↓】
【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。
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【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】