にんじんサラダわたし奥様ぢやないぞ
小川楓子
(『ことり』)
「奥様」あるいは「奥さん」と呼ばれるようになったのは、いつからだろうか。夫と暮らし始めた頃から毎日のように買い物をしている鮮魚店がある。最初は「お姉さん」と呼ばれていたが、気が付いたら「奥さん」になっていた。「お姉さん」と呼ばれていた時は、ザル盛りの鰯を買うと、「内緒だよ」と言って一匹ほどおまけしてくれることがあった。「奥さん」になってからは、鮪や鰈などの高級魚を薦められるようになったが、複数買うと100円ほどまけてくれる。恐らく、着ている服や雰囲気で呼称を変えたのだろう。
先日、十五年ぶりに街頭インタビューを受けた。魚介類の値上げについてである。やはり「奥様ちょっとよろしいですか?」と聞かれた。ちなみに十五年前は「街角のお姉様に伺います」との声掛けで、野菜購入の頻度について聞かれた。
独身時代、世田谷の学生街に住んでいた。少し歩くと昔ながらの下町の風情の残る商店街があった。デパートで買うよりは安い不揃いな野菜や切り身になっていない魚などを眺めて歩いた。21歳の頃、交際して半年ほど過ぎた恋人に手料理をご馳走することになった。メインディッシュは得意のハンバーグだが付け合わせに悩んだ。青物店の店主が「奥様奥様、今日は人参がお得だよ。キャロットスープにグラッセ、サラダもいいね」と言う。煮物とか漬物のような和食ではなく洋食メニューを提示したのが可笑しかった。奥様と言いつつも独身であることを見抜いていたのだ。若い私は奥様と言われたことが嬉しくて人参だけでなく南瓜まで買ってしまった。恋人は「人参とか南瓜は実家でしか食べないからか、懐かしい味がする」と言ってくれた。「今日ね、奥様って呼ばれたんだよ」と話す私に「奥様、これからもよろしくね」と頭を撫でた。何でもないような出来事がたまらなく幸せに感じられた21歳の私。まだ恋の永遠を信じていた頃の話である。
にんじんサラダわたし奥様ぢやないぞ 小川楓子
現在よく食する人参は、西洋種で日本には江戸末期に渡来した。それ以前には中国より伝来の東洋種があった。人参は和食にも洋食にも用いられるが、洋食のイメージが強いのは西洋種が主流になったためであろう。有色野菜として栄養価が高いことで知られる。一方で、子供の嫌いな野菜の代名詞でもある。大人になっても人参が食べられないと子供扱いされてしまう。人参が嫌いな男性は甘えん坊が多いので要注意だ。
作者は、1983年生まれ。「海程」に入会し、金子兜太に師事する。後に山西雅子主宰の「舞」に入会。若い女性だからこそ詠める瑞々しい感性が魅力である。口語体を用いつつもしっかりと季語に向き合っている。
奥様というと「奥様は魔女」を思い出してしまう。私もそうだが作者もドラマを観たことはないのだろう。ただ、奥様という響きにはどんな食材も美しい料理に変えてしまう能力が秘められているように感じている。掲句は、「奥さん」ではなく〈奥様〉であるがゆえに、高級感を持った特殊性を醸し出し、さらには揶揄のように展開している。
〈にんじんサラダ〉もまた、日常的ではない。ポテトサラダに入れたり、野菜スティックにしたりはするが、人参だけのサラダはあまり作らないのではないだろうか。調べたところ、人参は、サラダなどにして生食にした方がビタミンを多く摂取できるらしい。恋人の栄養バランスを気遣った料理だったのだ。食べやすいように細く刻み、手間暇を掛けて作ったのだが、相手の反応はどうだったのだろうか。
男性は、交際し始めたばかりの頃は、レストランを予約し、遊園地などにも連れていってくれるものだ。ところが、一度でも手料理をご馳走してしまうと、「次は煮魚が食べたい」とか「アイロン掛けてくれよ」とかどんどん甘え始める。「私はあなたのママじゃないのよ」と言いたくなってしまう。結婚を意識する年齢になれば「妻でもないのに」となり、結婚後は「家政婦じゃないのよ」となる。
友人のシングルマザーは、世話好きでピクニックに行くと豪勢な重箱弁当を作ってきてくれた。彼女の子供が小学生の頃に知り合ったのだが、お転婆な娘さんとは気が合った。そのシングルマザーには、交際していた男性がいたが、別の女性と結婚してしまう。一度は別れるものの「お前の手料理が食べたい」と言われ、よりを戻す。料理だけでなく、洗濯やズボンの裾上げまでしていたというから驚きである。「彼の奥様は、社長のお嬢さんで何もできない人なんだって」と笑っていた。結婚に失敗してシングルマザーになったのに、どうして幸せを掴もうとしないのかと自分のことのように悔しかった。お転婆な娘さんは、彼のことを「とっても面白いお兄さん」と言っていた。その後、私も彼女も転職したため疎遠になった。年賀状は来るものの恋の結末は知らない。
掲句は、不倫の恋でいうところの〈奥様〉ではない。だけれども、そんな想像も広がる句である。普通に考えれば、優柔不断な男性に「奥様にしてよ」とちょっと拗ねている可愛らしい句だ。
人参は冬に入ると安くなる。近所の畑では、星屑のような人参の葉がさざめいている。ある時、夫が会社の施設にある水栽培ファームで収穫されたという人参を持って帰ってきた。嬉しそうに鞄から人参を取り出す夫を見て私も喜んだ。鮮やかな人参を刻みながら「私は今、奥様なのだ」と思った。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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>>〔58〕みちのくに戀ゆゑ細る瀧もがな 筑紫磐井
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>>〔55〕青大将この日男と女かな 鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花 中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして 鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇 能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏 中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方 神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書 藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな 星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて 小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち 檜紀代
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>>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ 仙田洋子
>>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
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>>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな 大木孝子
>>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま 日野草城
>>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女
>>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー 古賀まり子
>>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ 河野多希女
>>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり 柿本多映
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