朝貌や惚れた女も二三日 夏目漱石【季語=朝貌(秋)】


朝貌や惚れた女も二三日

夏目漱石
 (『漱石俳句集』

 近所の小学校も二学期になり、庭には夏休みの間それぞれの家で育てていた朝顔の鉢が並んでいる。まだ赤や青の花弁が元気に開いているのだが、9月の朝顔に目を止める人はいない。ふと数年前に入谷の朝顔市で買った鉢のことを思い出した。

 梅雨明け前の蒸し暑い日であった。フルタイムで働き夫の両親を在宅で介護していたが、介護から手が離れた時には心が壊れていた。それなりのポジションを保っていた仕事もクレーム処理が続き欠勤が多くなった。体は元気なのに家の扉を開けられない罪悪感とともに眠っていたら、夫から電話があった。「今日から朝顔市だよね。仕事を早く切り上げるから、夕方の6時に鶯谷駅の改札で落ち合おう」。何も初日の夜に行かなくても良いのではと思ったが、世間は金曜日だ。金曜日の夜は遊ばなくてはという独身時代の記憶が蘇った。生活に疲れ果てた夫婦であるが、新鮮な気持ちで待ち合わせ場所に立った。久しぶりに着たワンピースの襞が太股をくすぐっていた。

 歩きながらビールを飲み焼きそばを食べた。朝顔の鉢はどれも高い。植物が好きだった父は、近所の人から貰った種から交配をし続け、真青な花を咲かせては自慢していた。朝顔は、無料なはず。三千円とかありえない。ところが夫は「君の好きなひらひらで透け透けのワンピースのような朝顔を買おう」と言い、売り子に交渉している。結局、「四色大輪咲き」の鉢を買った。鉢は小さい蕾を抱えていたが、どんな花が咲くのかも分からない。「ちゃんとお世話するんだよ」と言われながら満員電車で帰った。

 朝顔は、気温の低い朝に水をあげなくてはならない。水をあげることが日課になった私は、どんな花を咲かせるのかが楽しみとなり会社に行けるようになった。購入後、一ケ月経っても蕾は小さいまま。牽牛花とも呼ばれる朝顔の咲く時期は、旧暦の七夕の頃。新暦では、8月20日頃である。盆休みを終えた頃、やっと真っ白い大輪の花が一つだけ咲いた。写真に撮り、会社でも自慢した。同僚もみな私の心の傷に気付いていたのだろう。「会社を辞めてしまうのかと心配してたの。力になれなくてゴメン」と泣いてくれた。朝顔が咲いてくれた、ただそれだけのことで、仕事が順調に回り始めた。

 その後は毎日、二三輪の花を咲かせた朝顔。薄い色ではあったが青や赤を帯びていた。同僚と朝顔の話で盛り上がったのも二三日。出社前に大輪の花を咲かせる朝顔も夕方には萎んで疲れたうなじを晒す。大きくて美しいほど萎んだ時は無残である。どんなクレームにも笑顔で対応した後は、縮れて内に籠ってしまう。

 大輪咲きの朝顔は、みんみん蝉の声が聞こえなくなった9月初旬にも豊かな花弁を広げた。〈朝顔が日ごとに小さし父母訪はな 鍵和田秞子〉のように、9月になれば小さくなるものである。品種改良され、大輪に咲く運命を義務付けられた朝顔は小さく咲くことが許されなかったのだ。大輪の花を咲かせるには体力が要る。法師蝉が途絶える頃には、咲くことを止めてしまった。小さくても良いから長い期間、元気な花を咲かせて欲しかった。でも、私が今まで見た朝顔の中で一番美しかった。大きな水母のように私を包んだ儚い存在。朝にしか逢えない、だから頑張れた。精一杯広げた花弁の端はいつも透けて陽や風に痛んでいた。まるで、社会に順応するために羽を広げ過ぎて壊れてしまった私のようだ。着飾った美貌も浅はかな恋の駆け引きも長くは続かない。「来年は、平凡で良いから沢山咲く鉢を買おうね」と夫が言った。〈平凡に咲ける朝顔の花を愛す 日野草城〉。見栄を張って頑張らなくても良いことを知った。

  朝貌や惚れた女も二三日   夏目漱石 

 掲句は、当時、美女との恋愛関係で苦しむ松根東洋城に宛てた手紙のなかの一句である。「美人は三日で飽きる」とか「美人薄命」とか「百年の恋も一時に冷める」とか、そんなことを含んでいるのだろう。漱石は、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』など軽妙な小説を書く一方で、神経衰弱となり胃薬を手放せなかったという繊細な一面を持つ。恐妻家と言われているが実際には暴力夫であった。小説『こころ』では、友人Kの恋愛相談に親身になりつつも想い人を奪ってしまう男を描いた。東洋城も相談する相手を間違えたものだ。

 漱石としては一般論を述べただけのこと。時間が経てば恋は終る。どんなに美しい女でも二三日一緒に過ごすと嫌な面も見えてくる。化粧の剥がれた朝の顔も朝食を作れない不器用さも可愛いと思っていられるのは最初のうちだけだ。肉体関係を持てばお互いに我儘も生まれてくる。東洋城の恋は、相手の嫌な面も周囲からの反対も美しき苦悩だったのだろう。

 私の友人に絶世の美女がいた。一緒に街を歩けば、芸能人のスカウトやら銀座のクラブのスカウトやらが絶え間なく近づいてくる。当然のことながらナンパも多い。私が彼女だったら芸能界に入るのにと思ったが、本人はうんざりしていた。「みんな私の顔しか愛さないの。どんなに尽くしても捨てられてしまうの。あなたが羨ましい」。正直言って私は、美人でもないしスタイルが良いわけでもない。人見知りで会話だって上手じゃない。何が羨ましいのだろう。彼女いわく「だって一緒にいて楽しくて飽きないから」。美女に言われると悪い気はしない。呼び出されては出掛けてゆき、よく飲んだ。彼女の話はいつも一方的で、人を批判するような愚痴しか言わない。私には発言できない辛口が面白くて大笑いした。友達だと思ってくれたのは、私が聞き上手だったからか。人の悪口しか言わない彼女の唇も、些細なことで仕事を辞めてしまう細い眉毛も、限りなく美しいものに映った。見ているだけで幸せになる美しさがこの地上にはある。

 そんな美女なのだが芸能人と恋をして捨てられた過去があった。彼女は、何をしても完璧で流行にも敏感だ。芸能人とは、南青山の美容院で知り合った。当時は、歯科医師と婚約していたものの、医院の資金繰りや家族関係に疑問を感じ始めていた。芸能人から結婚をほのめかされ、婚約者と別れを告げる。出逢った頃は、毎日のように連絡があった芸能人もテレビの収録が忙しくなり逢えなくなってしまう。ある時、彼のマネージャーから呼び出され「5分ごとのメールも電話も待ち伏せも控えて頂きたい」と言われる。数か月後、交際中であったはずの芸能人が婚約発表をした。相手は素朴な一般人女性。私に似た雰囲気の女性だったとか。だから友達になってくれたのかな。でも嬉しかった。

 男性は、儚げな雰囲気を持つ朝顔に惚れる。朝顔は、美しいが食糧にはならない。人の目を奪う鮮やかで豊かな花弁も三日で飽きるものだ。9月になれば水遣りも日課となり面倒に思う日もある。写真ももう撮らない。美しいだけのものを食べては生きてゆけないからだ。

 美女は30歳を過ぎた頃、IT企業のサラリーマンと結婚した。現在は、家族のために朝から激安スーパーに並んで卵を購入しているという。彼女よりも不毛な恋愛を重ねてきた晩婚の私も似たような境遇だ。やっと親友になれた気がした。 

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
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