美しき時雨の虹に人を待つ 森田愛子【季語=時雨(冬)】


美しき時雨の虹に人を待つ

森田愛子
(『虹』)

 作者は、若くしてその美貌と才を惜しまれつつ亡くなった俳人である。高浜虚子の小説『虹』のヒロインとして知られる。二人が初めて出逢ったのは、昭和16年の正月。愛子24歳、虚子67歳、年齢差は43歳である。当時、愛子はホトトギス門下の伊藤柏翠と恋愛関係にあり、虚子は師匠という立ち位置である。だが、その後の虚子との間に交わされた句のやり取りは恋に近い。

 愛子は、大正6年11月生まれ。福井県の三国港にて回船問屋を営む豪商の娘であった。母親は、芸者置屋の娘で芸妓として名を馳せていた。裕福な少女時代を経て女学校を卒業した春に肺結核を患ってしまう。療養のために転居した鎌倉で伊藤柏翠と出逢う。柏翠に勧められ俳句を始め「ホトトギス」に投句するようになる。鎌倉に住んでいた虚子と対面したのもその頃である。程なくして、戦時中の物資不足により実家の三国に戻る。数年後には恋人の柏翠もまた愛子の実家に疎開した。

 昭和18年11月、虚子は、三国に住まう愛子を訪ね、山中温泉へ招待する。宴席では、愛子と元芸妓の母が歌い踊ったという。虚子はその姿に涙を流した。翌朝、帰ってゆく虚子を敦賀駅まで送る汽車の中から三国の方角に虹が立っているのが見えた。一ケ月後、虚子は愛子に句を贈った。〈雪山に虹立ちたらば渡り来よ 虚子〉〈虹の橋架かれば渡り来るといふ 虚子〉。別れの際の会話などが思い浮かぶ。「あの雪山に虹が立ったら、また来てください」「虹のように山を越えて会いに行きます」。その後、虚子は、長野県の小諸に疎開する。〈虹立ちて忽ち君の在る如し 虚子〉〈虹消えて忽ち君の無き如し 虚子〉は、小諸にて愛子を想い詠んだ句である。

 昭和20年11月、気胸を患う柏翠を見舞うために虚子が再び三国を訪れることになった。その数日前に虚子を待ちかねて愛子が詠んだ句が〈文来るを待つや空には時雨虹 愛子〉〈美しき時雨の虹に人を待つ 愛子〉である。11月5日、愛子の家の座敷で句会を催す。虚子は、その座敷を「愛居」と名付けた。

 小諸と三国を往還する虹の相聞句は、愛子の死の間際まで続く。昭和21年3月28日、危篤状態に陥った愛子は虚子に電報を打つ。〈ニジキエテスデニナケレドアルゴトシ アイコ〉。4日後の4月1日、29歳4か月の若さで死去。死を看取った、柏翠によれば、息を引き取る間際まで虹の句を詠んでいたという。虚子の弔電は、〈虹の橋渡り遊ぶも意のままに 虚子〉である。さらに十年後には〈我生の美しき虹皆消えぬ 虚子〉と詠む。

美しき時雨の虹に人を待つ 森田愛子

 師弟愛といわれればそうなのだろう。詩の世界においては、親子愛も友情も主君への忠誠心も恋の言葉で表現される。掲句は、師を慕う気持ちを恋の句のように詠んでいるのだ。虚子もまた若い愛弟子を想い虹の相聞句を詠み継いでいた。恋の表現というのは、詠むほどに気持ちが高ぶる。気が付けば激しい恋情を引き出してしまうことがある。

 私が短歌を詠み始めたのは、28歳の時である。すでに俳句でそれなりの評価を受けていたため、気軽な気持ちで歌会に参加した。歌誌「白鳥」主宰の成瀬有先生と初めて逢った時、人とは違うオーラを発しているのを感じた。「この方に付いて行こう」と思った瞬間だった。先生は、私より30数歳年上であったが、若く見えた。「白鳥」に入会すると、頻繁に電話を下さった。「歌会には絶対に参加しろよ」とか「こないだの文章はダメだ」とか。若い頃は、野球部の選手だったので体育会系の気質もあるが、電話の先生はいつも少年のような口調で可笑しかった。月に一度の歌会の際は、1時間前に喫茶店で落ち合い、他愛もない話をした。先生は珈琲が好きであった。〈日の夕ベ珈琲の香のたちくるをかなしみにつつ街に入り来も 有〉は、病後しばらく珈琲を断たれていた時の歌だ。ある時、会員の方に「お二人は、今月も喫茶店でデートですか」と冷やかされた。「デート、逢引、逢瀬、歌に詠んでしまおうかしら」と切り返すと先生は「よし、そうしよう」と笑った。先生の歌のなかの私は〈乙女〉と表現されていた。

 京都の宇治で「白鳥」の歌会が催されたことがあった。癌を克服し数年を経ていた先生はとても陽気であった。二日間に渡る歌会と吟行の翌日、先生と少数の有志で折口信夫の足跡を辿るために大阪に立ち寄った。大学時代から民俗採訪をしていた先生も弟子もひたすら地図にない小道を歩く。大阪駅で解散になった時にはへとへとに疲れていた。お土産などを買い、新幹線のホームに立ったとき、先生に声を掛けられた。「待合室で少し飲まないか」と。その時私は、翌日の仕事のことで頭がいっぱいだった。「もう帰ります」と言うとひどく残念そうな顔をされた。今も後悔している。翌年の琵琶湖のほとりで行われた歌会では、もう一泊して鯖街道を散策する計画があった。私は、1泊2日の歌会と吟行には参加するが、3日目の鯖街道は、俳句の大会があるからと断わっていた。先生は、三井寺を吟行中も「本当に来ないのかい」と何度も聞いた。そのたびに「大会では司会を任されているので無理です」と答えた。駅で別れる際には「今からでも遅くない。考えなおせ」と言い出し、鯖街道へ同行する弟子達が大笑いした。「白鳥」の会員であり先生の弟子でもある先輩方から見れば私は、成瀬有に見いだされた若いだけの無名の詠み手でしかなかった。それが歌人としての私が残した唯一の業績だ。

 数ヶ月後、先生の癌が再発。復帰するものの転移を繰り返した。2012年11月、死去。先生と出逢って9年目の時である。数日前に電話を貰ったばかりであった。途切れがちの息ではあったが「近所の古墳山は春になると三椏の花が咲く。元気になったら案内しよう」と言った。だから、またすぐに逢えると思っていた。先生への追悼の歌は〈多弁かと思へば寡黙なる君と宇治橋長く渡りし日あり 央子〉だ。私が詠んだ最後の短歌である。「先生が死んだから歌が詠めなくなった」と言ったら「俺のせいにするなよ」と少年のような口調で激怒することだろう。先生を失って初めて気がついた。先生のためだけに歌を詠んでいたことに。歌人としての評価など何もいらなかった。先生がいたから歌が詠めた。私が恋をしたのは、短歌ではなく先生だったのだ。

 先生が亡くなって10年が過ぎた。突然降り出した時雨に先生のことを想った。三井寺を吟行したあの日、駅で別れた後、瀬田の唐橋に立ち寄った。宇治と繋がる瀬田川は、先生と渡った宇治橋を思い出させた。鯖街道へ向う予定の先生たちの一行は、もう宿に着いている頃合いだろうということも頭をよぎった。するとたちまちにして激しい雨に襲われた。時雨である。ずぶ濡れになって入った橋のたもとの喫茶店で「俺の誘いを断るからそんな目に合うんだよ」と笑う先生の顔を思い浮かべて楽しくなった。雨が止んだ後、ゆっくりと橋を渡った。振り返ると対岸には虹が出ていた。先生もこの虹を見ているのだろうか。やっぱり、一緒に行けばよかった。

 そんな後悔の念も歳月と共に薄れてゆく。あの日の虹のように。先生への想いは、恋とは違うのかもしれないが、限りなく恋に近いものであった。記憶の中の淡い虹の残像がときおり濃くなって、今も胸を苦しめる。宴席で隣に座るよう呼んでくれた笑顔も誘いを断った時に見せた残念そうな顔も哀しく美しい想い出だ。先生の死によって、私は生涯で一番輝かしかった歌の言葉を失ったのだ。この先も短歌を詠むことはないだろう。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
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>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
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>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋     西東三鬼
>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物      加藤郁乎
>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈  尾崎放哉
>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人    なつはづき
>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇    新海あぐり
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵

>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎
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>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
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