金魚屋が路地を素通りしてゆきぬ
菖蒲あや
『路地』1967年
歳時記によると、金魚を入れた桶を天秤棒で担いで売り歩く金魚売(金魚屋)は、江戸中期以降、夏の風物詩であった。「金魚え〜、金魚」という独特の呼び声を響かせて町をねりあるく。時代を経るとリアカーや自動車にガラス器を積んで売るスタイルへ移り変わっていったというが、現在ではそれさえも郷愁に満ちた風物である。
掲句の「金魚屋」は桶スタイルか、リアカーでの引き売りだろう。そして金魚屋が一声も発することなく静かに通り過ぎて行ってしまう、それほどにこの「路地」は貧しい。掲句は金魚屋の姿を描いているだけだが、「素通り」や句末の「ぬ」に、それを見ている主体の感情が現れている。
菖蒲あやは、路地の人であった。
青木亮人著『近代俳句の諸相 ―正岡子規、高浜虚子、山口誓子など―』(創風社出版 2018)によれば、あやは大正13(1924)年、現在の東京墨田区京島町の長屋で生まれ、生涯をその周辺に暮らした。没年は平成17(2005)年。
戦後まもなくの混乱期、いわゆる『社会性俳句』や『前衛俳句』が隆盛となる中、勤め先の工場に創設された「俳句部」で俳句と出会ったあやは(当初はぜんぜんやる気がなかったらしい)、「俳句は履歴書」を信条とする師の岸風三楼に倣って、自身の貧しい長屋の暮らしや、女工など庶民の飾り気のない日常を、臆面もなく愚直に句にした。
(略)「路地」暮らしが今さらどうなるものでもない、薄給の仕事を恙なく勤め、日々を平穏にやり過ごすことぐらいだ……俳句一般の類想や女性らしい句にこだわることなく、その諦念じみた「路地」暮らしの一喜一憂を衒いなく詠もうとするところに、あや俳句の独自さがあった。
前掲書 p340より引用
先ほど、「素通り」や句末の「ぬ」に主体の感情が表れていると述べたが、その感情とは、諦念に近いもののように思われる。
金魚屋が素通りしてゆくことは、始めから分かっていたのかもしれない。「ああ、またか」と。一抹の淋しさには、すでに慣れっこなのである。「路地を素通りして」のあっさりした表現、音の抜け感、句全体の素朴な口調に、私は、諦念の涼しさを感じる。(季語「金魚屋」は言うまでもなく涼しい、という前提。)そして金魚屋もまた、日銭を稼いでその日をしのいでいかなければならない、しがない庶民のひとりである。
最近、なぜか唐突に菖蒲あやとこの句のことを思い出した。ここ数年の疫病流行に、あまりにも情けなく、心身が振り回されてしまったからかもしれない。
掲句は、前掲書より引用したが、角川書店の『俳句歳時記 第五版』『新版 角川俳句大歳時記』にも収録されている。
(古川朋子)
【執筆者プロフィール】
古川朋子(ふるかわ・ともこ)
1969年生まれ。「蒼海」会員。第6回星野立子新人賞受賞。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
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