恋の刻急げ アリスの兎もぐもぐもぐ 中村憲子【季語=兎(冬)】


恋の刻急げ アリスのもぐもぐもぐ

中村憲子

 遅刻癖のある男性や記念日を大切にしない男性は、恋人失格である。だが、そんなマイペースな男性に惹かれてしまうのも恋の不思議である。

 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』では、服を着た白いウサギが「大変だ、遅刻だ。急げ急げ」と言いながら走ってゆく。ウサギのあとを追いかけたアリスは深い穴に落ちてしまう。その穴は不思議の国の入口であった。ウサギは、物語の中でたびたび登場しアリスを誘導する役割を担うが、味方ではない。手にしている懐中時計が印象的である

 現実の兎は、意外とマイペースだ。故郷にはまだ野兎がいる。冬場になると枯野で下草を食べているのだが、近づいてもしばらく動かない。時折、耳を動かし風の匂いを嗅いでいる。ところが、捕まえようとするとあっという間に逃げる。

 イソップ童話の『ウサギとカメ』では、足の速さに慢心したウサギはレースの途中で居眠りをしてしまい、カメに追い抜かれてしまう。日本神話の因幡の白兎は、ワニザメを騙して川を渡ろうとするが、岸に着く直前で挑発してしまい返り討ちに合う。能力はあるものの、詰めが甘いのが兎である。インドから伝わったとされる仏教説話では、行き倒れた旅人を救おうとして火の中に飛び込み自身を食料として与えようとする。旅人は、実は帝釈天で、自分を犠牲にしてまで慈悲を与えようとした兎の姿を後世に伝えるため月に宿したという。兎には、弱肉強食の世界に於けるか弱い一面もある。

恋の刻急げ アリスの兎もぐもぐもぐ  中村憲子

 〈兎〉は冬の季語である。冬場に狩りをするからだ。雪の上に残す足跡は独特で、追うことができる。冬になると餌を求めて里に下りてくるため見かける機会も増える。近年では、ペットとしても人気が高い。寒さに強く外で飼うこともできるし、人にも懐きやすい。吠えることもなく暴れることもない。私の出身小学校には兎小屋があり、飼育係に立候補する児童は多かった。

 掲句の〈兎〉は、飼育している兎なのだろう。作者には急いで欲しい恋人がいるのだが、兎のようにマイペースで何かに夢中になっていてぐずぐずとしているのだ。〈もぐもぐもぐ〉と咀嚼する擬態語の〈もぐ〉が三回も繰り返されているところに作者の苛立ちが垣間見える。アリスのウサギのように焦りを感じて欲しいものだ。だが、髭や鼻を動かしながらいつまでも、もぐもぐもぐと食べている現実の兎の姿を想像すると何とも微笑ましい気持ちになってしまう句である。

 ぐうたらな男性が好きな私は、いつも苦労してきた。学生時代に交際した男性は、部屋でゲームばかりしていた。私が「たまには遊園地にでも連れて行って」と泣いたら渋々と承諾してくれた。ところが、待ち合わせ場所に遅刻してきた上に、腹が減ったと言い、ファーストフード店に入ってしまう。昼食は、遊園地内のビーフシチューの店を予約しているのに何故寄り道をするのかと苛立ってしまった。さらには長時間並んでようやく観覧車に乗ろうとするとトイレに行ってしまう始末。クリスマスも誕生日もゲームの攻略が優先のような人であったため別れた。数年後に「あの頃は、記念日とかに何かするのが照れくさかったんだよね。分かってよ」と言われ、さらに腹が立った。

 とある職場でランチ友達になった男性は、35歳で独身だったが30歳の時の失恋を引きずっていた。25歳の頃より交際していた彼女とは、貯金が目標金額に達成したら求婚するつもりでいた。28歳の時に目標を達成したものの、もう少し出世してからにしようと先延ばしにしてしまう。29歳になると仕事が忙しくて逢えなくなった。たまに連絡しても「頑張ってね」と励ましてくれたという。クリスマスの夜に何とか時間を作り結婚の話をしようとしたものの、仕事でミスをしてしまい逢うことが出来なかった。落ち込む自分を見せたくなかったため、ひと月ほど連絡を取らなかった。

 そろそろ連絡をしようと思っても、何と言って電話をしたら良いのか悩んでしまったという。彼女からバレンタインデーには逢いたいと連絡があったが会社の飲み会を断り切れず、すっぽかしてしまう。誕生日には必ず逢おうと思い連絡するも、「期待しないで待ってるわ」と言われたことに腹を立てて仕事を入れてしまった。4月の終わりに彼女から「連休中、1日だけでも逢えない?」とメールがあったが、またドタキャンしてしまうかもしれない自分が怖くて返信できなかった。

 連休の最終日に「今からなら逢えます」と送信すると「実家に帰っているので無理です」と返事がきた。自分から誘っておいて何だよと拗ねた彼は、これまたしばらく連絡を取らなかった。部下に仕事を任せられる立場になって余裕ができた夏に彼女に「逢えないかな」とメールをしたが返事はなかった。その後、何度も電話をしたが繋がらない。秋になって、彼女の部屋を訪ねていったら中から男性の声が聞こえてきたため、インターホンを押さずに帰った。また冬が来て、やはりちゃんと話し合おうと思い、再度彼女の部屋を訪れたが、引っ越しした後だった。

 仕事が忙しかった事情に同情はするが、逢える機会を何度も逃していることやコミュニケーション不足の面は非難してしまいたくなる。恋にはタイムリミットがある。この日、この時を逸したら二度と自分の手には戻らなくなることがある。彼は、心のどこかで「まだ大丈夫。まだ待ってくれている」と思ったのだろう。連絡をしようと思えばできたし、逢おうと思えば逢えたのに。これをしてから、あれをしてからと先延ばしにして、ぐずぐずしている間にどこかの誰かに奪われてしまったのだ。

 アリスのウサギは、懐中時計を手にして走っているものの「遅刻だ」と言っているのだから、時間に対して真面目な性格ではないのだろう。ウサギが待たせていたのは公爵夫人。やはり女性である。女性の美しさにはタイムリミットがある。だから結婚に焦るとも言われている。また、女性の心理としては、のんびりとしている男性よりもガツガツとしている男性の方が情熱的に見えるものだ。何事においても躊躇せず、恋人のことを最優先に考え、急いでくれた方が嬉しい。

 卯年ももう残り時間が少なくなってきた。新年を迎える前にするべきことはしておいた方が良い。特に恋に関しては、先延ばしにしてはいけない。兎狩が盛んになる12月は師走。もぐもぐしている場合ではない。全力疾走で恋を掴み取らなくてはいけないのだ。

篠崎央子

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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋     西東三鬼
>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物      加藤郁乎
>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈  尾崎放哉
>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人    なつはづき
>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇    新海あぐり
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵

>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎
>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中   鷲谷七菜子
>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの   岩永佐保
>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑      大橋敦子
>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

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