妻のみ恋し紅き蟹などを歎かめや
中村草田男
今週は草田男の第二句集『火の島』、第三句集『萬緑』の時代を見ていきたいと思う。というのも、『火の島』『萬緑』は地続きの句集であると言えるからだ。事実、第三句集『萬緑』は、『長子』から103句、『火の島』から128句、『火の島』以降から258句を収め、一書となっている。草田男本人も「此一書は、半ば私の第三句集と称へることが出来るわけである」と言い定めているが、実質的には『火の島』以降の258句が第三句集『萬緑』の作品ということになる。
『火の島』『萬緑』時代と『長子』時代の決定的な違いはやはり、結婚であろう。草田男は十数回のお見合いを経て、『長子』刊行と同年の昭和11年(1936)2月3日(草田男35歳の時)に福田直子(23歳)と結婚した。草田男の三女、中村弓子氏は『わが父草田男』の中で、「父は、十回以上といわれる見合いののちに母と見合いをしたとき、故郷松山の友人の姉上で、プロテスタントの篤い信仰に生き、奉仕の生活ののちに早死にされた女性のうちに見た『永遠の女性』の面影をついに母のうちに再び発見したと思い、母のほうは、父の眼を見て、この澄んだ眼を信じようと思って結婚した、とは父も母も何度も真剣に私たち娘に話したことだった」と述べている。その喜びの生き生きとした情意のうねりは、句作にも反映され、『長子』は「妹ゆ受けし指環の指を手袋に」「身の幸や雪やや凍てて星満つ空」で締め括り、『火の島』は「夕汽笛一すぢ寒しいざ妹へ」「足あとの雪の大路を妹がりへ」で始まっている。
また、『長子』時代のような孤独からくる滋味が、最近の作品の中から薄らいだという堀徹に対して草田男は、「今までの私は、現実生活の中に私のものといえるポジションを持たず、心の眼のみを通して漠然と現実を眺め、素朴な願いの糸をあてでもなくその上に投げかけていた。しかし結婚以後の私は、ささやかではあるが、私のものといえる現実生活の尺土を得て、手と足とを動かして、それを培うことによって、ひいては現実一般と社会全般とへ結びつこうとしている」と答えている。香西照雄は、『長子』から『火の島』への変化を、「静観的憧憬的な内省家から、行動的意欲的な生活者への変化」と見ており、「『道の上冬の日向へ出るところ』(『長子』)の消極性から、『此坂のいただきの冬日射す町へ』(『火の島』)の積極性への転換である」と語っている。それはまさに詩人の生活感情の変化であり、その感情の昂ぶりの最たるものに、新婚生活と吾子誕生の体験があり、作品もまたおのずから俳句の新しい面を切り拓いていると言って良いだろう。
吾妻かの三日月ほどの吾子胎すか 草田男 (『火の島』より)
桜の実紅経てむらさき吾子生る
雛の軸睫毛向けあひ妻子睡る
のけぞれば吾が見えたる吾子に南風
朧三日月吾子の夜髪ぞ潤へる
あかんぼの舌の強さや飛び飛ぶ雪
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る
妻恋し炎天の岩石もて撃ち
どの句も当時としてはかなり大胆に思えるが、この情意を吐露せずにはいられない草田男俳句の一つの要素でもあろう。フレーズの新鮮さ、絶妙な季語のはたらきもさることながら、俳句としての純度、「真・善・美」で言うところの「真」としての、まことの人間の表現が感じられる。
掲句も上五の力強い断定にあるように、単なる妻恋俳句のように思えるが、中七下五を紐解くと、単なる妻恋からいささか違う側面も伺える。掲句は中七で半ば唐突に「紅き蟹」が出てくるが、草田男の自句自解では、「『紅き蟹などを歎かめや』は、勿論、啄木の『東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる』の歌を唱んでいる」という事を言っている。この自句自解だけでは解釈が難しいが、ここで思い出してほしいのは、草田男の幼少期の最初の記憶の事である。私は前回の6月6日掲載の「ハイクノミカタ」で、草田男が3歳のとき、松山松前町の海辺で赤い蟹が遊ぶのを見たというのが最初の記憶であるという事を書いたが、掲句の「紅き蟹」はこの幼少期に一時住んだ松山松前町の海辺で見た蟹の事で間違いはないだろう。第六句集『母郷行』にも、「松前町海岸の入江を訪ふ。ここは、母との生活の、最初の記憶の地なり、その頃の住居現存す」という長い前書きでこのような句がある。
詩人を生みし母の運命を蟹かなしむ 草田男(『母郷行』より)
草田男は「紅き蟹」と相見えることにより、幼少期の松前町海岸での記憶、そして母と同時に両親不在がちの草田男を守ってくれた祖母との記憶を思い出しているのであろう。「さまざまのこと思ひ出す桜かな」ではないが、そういった幼少期の母や祖母の記憶を含めての「などを」なのである。
そして、下五の文法的な意味だが、「歎かめや」の「めや」の「め」は推量の助動詞「む」の已然形。「や」は已然形につくときは反語の「~だろうか。いやそうではない」という意味の助詞である。
つまりここで草田男は、「幼少期の母や祖母の記憶といったものを歎いたりしていられるだろうか、いやいやそんなことは決してゆるされない」。だからこその「妻のみ恋し」であると言っているのだ。いつまでも祖母や母とのしがらみに雁字搦めにされていたのでは、真の新しい夫婦という絆や家庭は創造してゆくことはない。断ち切ることなどできないものを断ち切って、妻のみ恋しいのでなければならない。という事が真意であろう。
草田男は後年、深沢七郎の姨捨伝説を描いた小説『楢山節考』を読んでの感慨をこう詠んでいる。
おふくろ捨てて女房拾うて寒鴉 草田男(『美田』より)
お姑さんとお嫁さんとの葛藤は、草田男の場合も例外ではなかったのだろう、結婚当初の決意から一転、人間草田男のもがきと嘆きが垣間見える。草田男にとって妻という存在は、母を捨ててこそ、いや断ち切ってこその愛するべき存在であったのかもしれない。
(北杜駿)
【執筆者プロフィール】
北杜駿(ほくと・しゅん)
1989年生まれ。千葉県出身。現在は山梨県在住。2019年「森の座」入会、横澤放川に師事。2022年星野立子新人賞受賞。2023年森の座新人賞受賞。「森の座」同人。
Email: shun.hokuto@outlook.com
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【2023年6月の火曜日☆北杜駿のバックナンバー】
【2023年6月の水曜日☆古川朋子のバックナンバー】
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>>〔7〕手の甲に子かまきりをり吹きて逃す 土屋幸代
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>>〔9〕夏蝶の口くくくくと蜜に震ふ 堀本裕樹
【2023年5月の水曜日☆古川朋子のバックナンバー】
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>>〔2〕電車いままつしぐらなり桐の花 星野立子
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【2023年4月の火曜日☆千野千佳のバックナンバー】
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【2023年4月の水曜日☆山口遼也のバックナンバー】
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【2023年3月の火曜日☆三倉十月のバックナンバー】
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>>〔4〕不健全図書を世に出しあたたかし 松本てふこ【←三倉十月さんの自選10句付】
【2023年3月の水曜日☆山口遼也のバックナンバー】
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【2023年2月の火曜日☆鈴木総史のバックナンバー】
>>〔6〕立春の零下二十度の吐息 三品吏紀
>>〔7〕背広来る来るジンギスカンを食べに来る 橋本喜夫
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【2023年2月の水曜日☆楠本奇蹄のバックナンバー】
>>〔1〕うらみつらみつらつら椿柵の向う 山岸由佳
>>〔2〕忘れゆくはやさで淡雪が乾く 佐々木紺
>>〔3〕雪虫のそつとくらがりそつと口笛 中嶋憲武
>>〔4〕さくら餅たちまち人に戻りけり 渋川京子
【2023年1月の火曜日☆鈴木総史のバックナンバー】
>>〔1〕年迎ふ父に胆石できたまま 島崎寛永
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【2023年1月の水曜日☆岡田由季のバックナンバー】
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【2022年11・12月の火曜日☆赤松佑紀のバックナンバー】
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【2022年11・12月の水曜日☆近江文代のバックナンバー】
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>>〔7〕橇にゐる母のざらざらしてきたる 宮本佳世乃
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>>〔9〕動かない方も温められている 芳賀博子
【2022年10月の火曜日☆太田うさぎ(復活!)のバックナンバー】
>>〔92〕老僧の忘れかけたる茸の城 小林衹郊
>>〔93〕輝きてビラ秋空にまだ高し 西澤春雪
>>〔94〕懐石の芋の葉にのり衣被 平林春子
>>〔95〕ひよんの実や昨日と違ふ風を見て 高橋安芸
【2022年9月の水曜日☆田口茉於のバックナンバー】
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>>〔6〕後の月瑞穂の国の夜なりけり 村上鬼城
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>>〔8〕逢えぬなら思いぬ草紅葉にしゃがみ 池田澄子
【2022年9月の火曜日☆岡野泰輔のバックナンバー】
>>〔1〕帰るかな現金を白桃にして 原ゆき
>>〔2〕ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ なかはられいこ
>>〔3〕サフランもつて迅い太子についてゆく 飯島晴子
>>〔4〕琴墜ちてくる秋天をくらりくらり 金原まさ子
【2022年9月の水曜日☆田口茉於のバックナンバー】
>>〔1〕九月来る鏡の中の無音の樹 津川絵理子
>>〔2〕雨月なり後部座席に人眠らせ 榮猿丸
>>〔3〕秋思かがやくストローを嚙みながら 小川楓子
>>〔4〕いちじくを食べた子供の匂ひとか 鴇田智哉
【2022年6月の火曜日☆杉原祐之のバックナンバー】
>>〔1〕仔馬にも少し荷を付け時鳥 橋本鶏二
>>〔2〕ほととぎす孝君零君ききたまへ 京極杞陽
>>〔3〕いちまいの水田になりて暮れのこり 長谷川素逝
>>〔4〕雲の峰ぬつと東京駅の上 鈴木花蓑
【2022年6月の水曜日☆松野苑子のバックナンバー】
>>〔1〕でで虫の繰り出す肉に後れをとる 飯島晴子
>>〔2〕襖しめて空蟬を吹きくらすかな 飯島晴子
>>〔3〕螢とび疑ひぶかき親の箸 飯島晴子
>>〔4〕十薬の蕊高くわが荒野なり 飯島晴子
>>〔5〕丹田に力を入れて浮いて来い 飯島晴子
【2022年5月の火曜日☆沼尾將之のバックナンバー】
>>〔1〕田螺容れるほどに洗面器が古りし 加倉井秋を
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>>〔3〕葉桜の夜へ手を出すための窓 加倉井秋を
>>〔4〕新綠を描くみどりをまぜてゐる 加倉井秋を
>>〔5〕美校生として征く額の花咲きぬ 加倉井秋を
【2022年5月の水曜日☆木田智美のバックナンバー】
>>〔1〕きりんの子かゞやく草を喰む五月 杉山久子
>>〔2〕甘き花呑みて緋鯉となりしかな 坊城俊樹
>>〔3〕ジェラートを売る青年の空腹よ 安里琉太
>>〔4〕いちごジャム塗れとおもちゃの剣で脅す 神野紗希
【2022年4月の火曜日☆九堂夜想のバックナンバー】
>>〔1〕回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア 豊口陽子
>>〔2〕未生以前の石笛までも刎ねる 小野初江
>>〔3〕水鳥の和音に還る手毬唄 吉村毬子
>>〔4〕星老いる日の大蛤を生みぬ 三枝桂子
【2022年4月の水曜日☆大西朋のバックナンバー】
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>>〔2〕回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア 豊口陽子
>>〔3〕田に人のゐるやすらぎに春の雲 宇佐美魚目
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【2022年3月の火曜日☆松尾清隆のバックナンバー】
>>〔1〕死はいやぞ其きさらぎの二日灸 正岡子規
>>〔2〕菜の花やはつとあかるき町はつれ 正岡子規
>>〔3〕春や昔十五万石の城下哉 正岡子規
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>>〔5〕おとつさんこんなに花がちつてるよ 正岡子規
【2022年3月の水曜日☆藤本智子のバックナンバー】
>>〔1〕蝌蚪乱れ一大交響楽おこる 野見山朱鳥
>>〔2〕廃墟春日首なきイエス胴なき使徒 野見山朱鳥
>>〔3〕春天の塔上翼なき人等 野見山朱鳥
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【2022年2月の火曜日☆永山智郎のバックナンバー】
>>〔1〕年玉受く何も握れぬ手でありしが 髙柳克弘
>>〔2〕復讐の馬乗りの僕嗤っていた 福田若之
>>〔3〕片蔭の死角から攻め落としけり 兒玉鈴音
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【2022年2月の水曜日☆内村恭子のバックナンバー】
>>〔1〕琅玕や一月沼の横たはり 石田波郷
>>〔2〕ミシン台並びやすめり針供養 石田波郷
>>〔3〕ひざにゐて猫涅槃図に間に合はず 有馬朗人
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【2022年1月の火曜日☆菅敦のバックナンバー】
>>〔1〕賀の客の若きあぐらはよかりけり 能村登四郎
>>〔2〕血を血で洗ふ絨毯の吸へる血は 中原道夫
>>〔3〕鉄瓶の音こそ佳けれ雪催 潮田幸司
>>〔4〕嗚呼これは温室独特の匂ひ 田口武
【2022年1月の水曜日☆吉田林檎のバックナンバー】
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな 蜂谷一人
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる 岸本葉子
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎 神野紗希
【2021年12月の火曜日☆小滝肇のバックナンバー】
>>〔1〕柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規
>>〔2〕内装がしばらく見えて昼の火事 岡野泰輔
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【2021年12月の水曜日☆川原風人のバックナンバー】
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>>〔2〕枯葉言ふ「最期とは軽いこの音さ」 林翔
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【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】
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>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉 芭蕉
>>〔4〕埋火もきゆやなみだの烹る音 芭蕉
>>〔5-1〕蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【前編】
>>〔5-2〕蝶落ちて大音響の結氷期 富沢赤黄男【後編】
【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】
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