春の日やあの世この世と馬車を駆り 中村苑子【季語=春の日(春)】


春の日やあの世この世と馬車を駆り

中村苑子
(『中村苑子句集』立風書房)

押井守の監督したアニメ映画『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年公開)の続編『イノセンス』(2004年公開)の中で、殺人事件を起こしたアンドロイドを調査するラボの研究者と事件の捜査官が、人間と人造人間の区別に関する哲学的な問答(「ブレードランナー」以来の例のあれ)をしたシーンの後、捜査車両の中で事件現場に急行するよう無線の指令を受けた捜査官、物語の主要人物であるバトーが相棒のトグサに使う台詞として引用されている。つまり、捜査車両の比喩が「馬車」なのだが、普通の文脈ならば「あの世この世」は彼岸と此岸であるところを、作品中では存在として限りなく近づいた人と人に似た機械は区別できるのか、というテーマを内包した中でその両者の間を生きる人(バトーもほぼ全身サイボーグ)に使われている台詞だけに、ここでの「あの世この世」は、俗に言う死の世界と生の世界という単純な二項で括られず、人間から見たサイボーグとサイボーグから見た人間の間を行き来するうちに両者の境界の曖昧な領域に踏み込まざるをえない登場人物達(そして実世界の近未来の人類)のありようを暗示する役割を持たされているように思われる。以上は直接作家中村苑子には関係のない話であるが、中村苑子の句業を、この世あの世、そしてそれとはまた違う己の中のあるものとあるものの間を行き来するような仕事でもあったと考えるならば、通じているところがないわけではないようにも思う。

さて、掲句の初出は第一句集『水妖詞館』(1975年)。引用元の『中村苑子句集』は、これと第二句集『花狩』に、「四季物語」(同タイトル単体の出版はない)を加えて編まれたもの。中村苑子はその高名にもかかわらず、いまだに全集・全句集の出版がなく、作家の仕事の全貌を知ることができる資料が少ない。軽く調べた範囲で既存の句集は下記の9冊あるとわかったが、「四季物語」を第三句集と呼んで良いのであれば、以下第四句集『吟遊』、第五句集『花隠れ』ということになろうか。最初の二句集について、「それで私の句業を終りにしたいと思った。合わせて三百句、私というささやかな女流俳人の全貌を識って貰うには、読書をして疲れさせない適当な句数に思えたのであった。」(『中村苑子句集』序文「私記」から引用)と書いた作家は、90年代になってようやく二冊の句集を出したものの、それで筆を折ってしまう。

①『水妖詞館』1975年 俳句評論社

②『句集花狩』1976年 コーベブックス

③『中村苑子句集』1979年 立風書房

④『俳句の現在 13 津田清子集 鯤/中村苑子集 非時の花』1990年 三一書房

⑤『吟遊』1993年 角川書店

⑥『中村苑子 花神コレクション俳句』1994年 花神社

⑦『花隠れ 中村苑子句集』1996年 花神社

⑧『白鳥の歌―中村苑子句集』(ふらんす堂文庫)1996年 ふらんす堂

⑨『中村苑子句集 』(芸林21世紀文庫) 高橋順子編 2002年 芸林書房

苑子の晩年の直弟子であった故吉村毬子は、丹念に書かれた評論「エロティシズムのかたち「自我への継承」-『水妖詞館』の包括するもの-」(初出「LOTUS」第31号、第32号、第34号)※注1において、髙柳重信と三橋鷹女という苑子に多大な影響を与えた作家との影響関係を追ったのち、掲句については「いとも簡単に「あの世この世」を往き来する術は、苑子の夢であり使命であった。シンデレラが舞踏会へ出掛ける事と、苑子が黄泉へ赴くのは、同等の興奮を示す。(中略)苑子が、生と死を往還する俳句を作り続けたのは、生者死者、万朶の花、寂漠たる枯野が唯いとおしかったのである。」などと述べていて、非常に興味深い(注)。中村苑子という俳人は、この吉村の評論などをベースにしつつ、まだまだ論じられて欲しいし、もっと読まれるべき作家だと思うのだけれど、残念ながら新刊で入手可能な句集はない模様。

※注1:http://blog.livedoor.jp/lotus_haiku/archives/1064404117.html

なお吉村は「BLOG俳句新空間」でも書いているのだけれど、「中村苑子」をサイト内検索やラベル表示すると部分部分読めるものの、いっぺんに全部は出てこないので探しにくいのが惜しまれる。

橋本直


【執筆者プロフィール】
橋本直(はしもと・すなお)
1967年愛媛県生。「豈」同人。現代俳句協会会員。現在、「楓」(邑久光明園)俳句欄選者。神奈川大学高校生俳句大賞予選選者。合同句集『水の星』(2011年)、『鬼』(2016年)いずれも私家版。第一句集『符籙』(左右社、2020年)。共著『諸注評釈 新芭蕉俳句大成』(明治書院、2014年)、『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂、2018年)他。


橋本直さんの第一句集『符籙』はこちら】


【橋本直のバックナンバー】
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>>〔131〕黄沙いまかの楼蘭を発つらむか 藤田湘子
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>>〔129〕誰もみなコーヒーが好き花曇  星野立子
>>〔128〕変身のさなかの蝶の目のかわき 宮崎大地
>>〔127〕恋さめた猫よ物書くまで墨すり溜めし 河東碧梧桐
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>>〔73〕杜甫にして余寒の詩句ありなつかしき  森澄雄
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>>〔71〕寒天煮るとろとろ細火鼠の眼    橋本多佳子
>>〔70〕ばばばかと書かれし壁の干菜かな            高濱虚子
>>〔69〕大寒の一戸もかくれなき故郷     飯田龍太
>>〔68〕付喪神いま立ちかへる液雨かな     秦夕美
>>〔67〕澤龜の萬歳見せう御國ぶり      正岡子規
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>>〔65〕大年やおのづからなる梁響      芝不器男
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>>〔63〕天籟を猫と聞き居る夜半の冬     佐藤春夫
>>〔62〕暗闇の眼玉濡さず泳ぐなり     鈴木六林男
>>〔61〕ラーメン舌に熱し僕がこんなところに 林田紀音夫
>>〔60〕冬真昼わが影不意に生れたり     桂信子

>>〔59〕雛飾る手の数珠しばしはづしおき 瀬戸内寂聴
>>〔58〕枯芦の沈む沈むと喚びをり      柿本多映
>>〔57〕みかんいろのみかんらしくうずもれている 岡田幸生
>>〔56〕あきかぜの疾渡る空を仰ぎけり  久保田万太郎
>>〔55〕自動車も水のひとつや秋の暮     攝津幸彦
>>〔54〕みちのくに生まれて老いて萩を愛づ  佐藤鬼房
>>〔53〕言葉がわからないので笑うてわかれる露草咲いてゐる 種田山頭火
>>〔52〕南海多感に物象定か獺祭忌     中村草田男
>>〔51〕胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋    鷹羽狩行
>>〔50〕ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ
>>〔49〕彎曲し火傷し爆心地のマラソン    金子兜太
>>〔48〕蜩やチパナスのあたり雲走る     井岡咀芳
>>〔47〕日まはりは鬼の顔して並びゐる    星野麦人
>>〔46〕わが畑もおそろかならず麦は穂に  篠田悌二郎
>>〔45〕片影にこぼれし塩の点々たり     大野林火
>>〔44〕もろ手入れ西瓜提灯ともしけり   大橋櫻坡子
>>〔43〕美しき緑走れり夏料理        星野立子
>>〔42〕遊女屋のあな高座敷星まつり     中村汀女
>>〔41〕のこるたなごころ白桃一つ置く   小川双々子
>>〔40〕海女ひとり潜づく山浦雲の峰     井本農一

>>〔39〕太宰忌や誰が喀啖の青みどろ    堀井春一郎
>>〔38〕草田男やよもだ志向もところてん    村上護
>>〔37〕水底を涼しき風のわたるなり     会津八一
>>〔36〕棕梠の葉に高き雨垂れ青峰忌    秋元不死男
>>〔35〕谺して山ほととぎすほしいまゝ    杉田久女
>>〔34〕夕立や野に二筋の水柱       広江八重桜
>>〔33〕雲の上に綾蝶舞い雷鳴す      石牟礼道子
>>〔32〕尺蠖の己れの宙を疑はず       飯島晴子
>>〔31〕生前の長湯の母を待つ暮春      三橋敏雄
>>〔30〕産みたての卵や一つ大新緑      橋本夢道
>>〔29〕非常口に緑の男いつも逃げ     田川飛旅子
>>〔28〕おにはにはにはにはとりがゐるはるは  大畑等
>>〔27〕鳥の巣に鳥が入つてゆくところ   波多野爽波
>>〔26〕花の影寝まじ未来が恐しき      小林一茶
>>〔25〕海松かゝるつなみのあとの木立かな  正岡子規
>>〔24〕白梅や天没地没虚空没        永田耕衣
>>〔23〕隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな  加藤楸邨
>>〔22〕幻影の春泥に投げ出されし靴     星野立子
>>〔21〕餅花のさきの折鶴ふと廻る       篠原梵

>>〔20〕ふゆの春卵をのぞくひかりかな    夏目成美
>>〔19〕オリヲンの真下春立つ雪の宿     前田普羅
>>〔18〕同じ事を二本のレール思はざる    阿部青鞋 
>>〔17〕死なさじと肩つかまるゝ氷の下    寺田京子
>>〔16〕初場所や昔しこ名に寒玉子     百合山羽公
>>〔15〕土器に浸みゆく神酒や初詣      高浜年尾
>>〔14〕大年の夜に入る多摩の流れかな   飯田龍太
>>〔13〕柊を幸多かれと飾りけり       夏目漱石
>>〔12〕杖上げて枯野の雲を縦に裂く     西東三鬼
>>〔11〕波冴ゆる流木立たん立たんとす    山口草堂
>>〔10〕はやり風邪下着上着と骨で立つ    村井和一
>>〔9〕水鳥の夕日に染まるとき鳴けり    林原耒井
>>〔8〕山茶花の弁流れ来る坂路かな     横光利一
>>〔7〕さて、どちらへ行かう風がふく     山頭火
>>〔6〕紅葉の色きはまりて風を絶つ     中川宋淵
>>〔5〕をぎはらにあした花咲きみな殺し   塚本邦雄
>>〔4〕ひっくゝりつっ立てば早案山子かな  高田蝶衣
>>〔3〕大いなる梵字のもつれ穴まどひ     竹中宏
>>〔2〕秋鰺の青流すほど水をかけ     長谷川秋子
>>〔1〕色里や十歩離れて秋の風       正岡子規


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

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