海苔あぶる手もとも袖も美しき
瀧井孝作
(『海ほほづき』)
海苔というと朝食である。現在では味付海苔などがあるが、昭和の時代は、一枚の海苔を火で炙り、ぱりぱりと音をたてながら折って割いてゆく。食卓に流れる海苔の芳ばしい匂いは食欲をそそる。海苔を炙る母の後ろ姿や手つきなどが甘い記憶として残っている。貧しかったわけではないが、朝食は卵と海苔と味噌汁が定番であった。季節によっては、漬物や梅干し、納豆が添えられる。今にして思えば父の要望だったのであろう。農家に生まれた父は、米の旨さを引き立たせる菜を好んだ。
男性は、女性とは違った視点で人をよく観察している。女性は、相手の独特の癖などを察知するのに対して、男性は、ターゲットの全てを見ている。本人の性格にも寄るので断定はできない。少なくとも私などは、ぼんやりと人を眺めつつ、不思議だなと思った仕草に眼が向く。そのなかで、恋のターゲットが決まってゆく。男性もまた仕草が美しいと感じた女性に恋をするのだが、そう感じる前にターゲットが決まっているように思う。男性は見た目重視、女性は内面重視という俗説ではないけれども、恋をする瞬間のタイミングが少々違うのだ。
私が高校生の時に読んだ雑誌で、男性が美しいと感じる女性の仕草の第一位は、耳飾りを直す仕草であった。「春のイヤリングはこれで決まり」という特集だったので、本当かどうかは分からない。若かった私は、鏡の前で耳飾りを直す時、どうしたら美しく見えるのかを研究した。確かに、斜め45度の角度で少々流し目となった時、いつもの数倍増しでいい女に見えた。当時はまだ男性ピアスも少数派だったので耳飾りは、女性のものであった。よく考えたら、耳飾りは無意識で直すものである。研究しなくても美しく見えるのだ。「耳飾りを直す仕草に惚れた」とか言われても嬉しくはない。
ショットバーでアルバイトをしていた頃のある夜、若い男女がカウンターに座った。会話の流れから合コンで知り合ったばかりの年下の男女であることが分かった。男性は、色白のあか抜けない雰囲気の大学生。女性は、ショートカットの似合う健康的な容姿でサバサバとした性格に見えた。女性が私に声を掛ける。「素敵な腕時計ですね。高いのでしょ」「頂き物なので、値段は分からないのですが気に入っています」。恥ずかしくて左手首の腕時計を隠すように右の手を置いた。「仕草が大人っぽい、憧れます」と言い始めた時には相当酔いが回っているようだった。
後日、男性の方が一人で飲みにやってきた。「あの時の女性とは上手くいきましたか?」と聞くと「実は、今日はその相談で来たのです。今度、デートすることになったので、予行練習に付き合って下さい」。普段は、お客様とはプライベートでは会わない主義だったのだが、常連になる可能性の低い若い学生だ。興味心の方が先だってしまい「そういうの楽しそう。任せて」と言ってしまった。渋谷で待ち合わせをして面白くもないアメリカ映画を観た。デートの練習に付き合う私もまた練習中なので「すごくハラハラした。手が汗でしっとりしちゃった」と男性の手を握る。ちょっとやりすぎだったかな。原宿の竹下通りも好きではない。素顔の若者たちで賑わう街にワイン色のルージュを塗った私は少し浮いていた。退屈していると男性がソフトクリームを買ってきた。二月末の余寒の風の吹く午後に冷たい食べ物は拷問である。「きゃあ、ありがとう」と恐る恐る舌を伸ばす。男性は、イチゴ味のソフトクリームを舐める私をじっと見つめていた。ふと、男性の握るソフトクリームが溶けて手を染めているのに気付いた。「早く食べないと」とハンカチで拭ってあげた。年下の男性は苦手なのだが、胸の奥がむずむずした。甘い物を食べるとしょっぱいものが食べたくなる。フランクフルトが売っていたので「これは、私の奢り」と言って買った。私は、ケチャップとマスタードを塗りたくって先端からがぶり。「色っぽいな」。男性の一言に少し困惑した。
一ケ月後、男性はまた一人で店に来た。「どうだった?」と聞くと「彼女には色気が足りないんだ。原宿ではずっと映画の文句ばかり。ソフトクリームは噛むように食べるし。ハンカチだって持ってない。フランクフルトは横齧り。最後にはブランドの腕時計をねだられた」「正直で良いじゃない。私はそういう女性が好きよ」「あの合コンの夜だって、別に好きでこの店に来たわけじゃないんだ。下心はあったけど」「じゃあ、何でデートしたの。予行練習までして」「俺、女性と交際したことなかったから彼女になってくれれば誰でも良かったんだと思う」「ふーん。そういうもんなんだ」。数日後、早上がりの私が店を出ると男性が立っていた。「待っていたんです。好きになってしまいました」と花束を渡された。ピンクのチューリップの花束。気持ちは嬉しかったのだが断った。予行練習デートの時に私を舐め回すように見つめる視線が怖かったからだ。恋心とは不思議なもので、自分には興味を示さない男性だから惹かれたはずなのに、好かれると引いてしまう。私が不毛な恋愛ばかり重ねてしまったのは、相手を見つめすぎたせいだと悟った。そして、男性が女性の何を見ているのかを学んだ。ターゲットではないはずの女性の何気ない仕草から恋が始まることも。
海苔あぶる手もとも袖も美しき 瀧井孝作
海苔は春の季語である。岩に張り付く海苔の青さは春の兆しを思わせ、海苔掻きもまた初春の頃の景色だ。東京では浅草海苔が有名であるが品川も海苔の養殖で栄えた。遊郭に近い海辺の町で着物姿の女将が海苔を炙る姿は風情がある。
掲句は、手もとだけでなく袖も美しいと表現している。袖から伸びた白い手が、海苔を裏にしたり表に返したりしている姿は、想像するだけでも美しい。袖が、火に掛からないよう、押さえる仕草もまた色気がある。
海苔を炙る時、女性は誰しも美しく見えるものである。だが、作者はその仕草に惹かれたのだ。惚れているからこそ数倍増しで美しく映ったのだろう。
作者の瀧井考作は、大正時代に恋愛小説で名を馳せた。一方で、正岡子規の高弟である河東碧梧桐に師事し新傾向俳句運動に携わった。私生活では、吉原にいた女性と結婚するも死別。数年後には、編集者として担当していた志賀直哉宅に下宿し、住み込みの看護師兼家政婦と結婚。世話焼き女房タイプの女性が好きであったと思われる。
いつの時代でも男性は、世話焼き女房タイプの女性が好きである。特に海苔を炙る姿は、母なるものへの恋情の記憶を呼び起こす。それは、目の前で朝食を用意している女性へと重ねられてゆく。海苔を炙るのは、少々難しい。火を撫でるようにしなやかに裏返さなくてはならない。手首の柔軟性を必要とする。気を抜くと海苔に火が点いたり焦げてしまったりするからだ。海苔の湿気を払うためのささやかな気遣いにも技術が要る。
梅が咲いた頃であろうか。当時はまだ20代であった俳人男性仲間の部屋で句会をした。帰り際「結社の方より海苔をひと箱頂いたので、持って帰って下さい」と言われた。十枚の海苔を裸のまま渡そうとするので、断った。包装されていない海苔を鞄に入れられないと思ったからだ。細かいことを気にしない人はくるくると筒状に巻いて鞄に刺していた。鞄の底に海苔の破片が積もるのを嫌った自分の性格を気に病んだ。ところが翌日、実家から段ボールにぎゅうぎゅうに詰まった海苔が送られてきた。海に遠い故郷だが、母の実家は海苔の産地であった。数日間、海苔三昧。海苔グラタンや海苔ケーキまで考案した。海苔を分けてくれようとした俳人男性に、海苔レシピを話したのだが、断ったことを恨んでいる風であった。お互い独身だったのだから「海苔はね、こうやって炙るのよ」と教えてあげたら、恋も芽生えたのかもしれない。とても残念なことをしてしまった。年下男性への苦手意識は克服したはずだったのだが。
(篠崎央子)
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【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。
2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓
【篠崎央子のバックナンバー】
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