弟へ恋と湯婆ゆづります 攝津幸彦【季語=湯婆(冬)】


弟へ恋と湯婆ゆづります

攝津幸彦
(『鹿々集』)

 兄にとって弟は最初のライバルである。長男であればなおさらだ。母親の乳房も時間も全て自分のものだったのが、ある日突然奪われてしまうのだ。弟の出産により、親族の主役から脇役になってしまう。母親を恋しがって泣けば「お兄さんなんだから」と言われ、お気に入りの服も玩具も弟のものになってゆく。この喪失感は兄でしか分からないだろう。人に譲ることを覚える兄もいれば、親の目を盗んで弟のものを取り上げる兄もいる。弟もまた、兄の存在により自分だけのものを持てない。いつも兄のお下がりばかり、たまに新しいものを買って貰っても兄に奪われてしまう。

 姉妹だと、その辺りの損得を話し合うことがあるのだが、兄弟はどうなのだろうか。私には三歳年上の姉がおり、お下がりの服も玩具も「私のものよ」と言われた。誕生日のプレゼントも「私より良いものを貰ってズルい」と怒られる。さらには、どんなに頑張っても親族から「お姉ちゃんはもっと出来た」と非難される。妹に生れたがゆえに、とても理不尽な思いをしてきた。一方姉は、「お姉ちゃんなんだから我慢しなさい」とか「お姉ちゃんなんだから何でもできて当たり前」とか言われて育ったというから、それはそれで大変なことであったろう。幼いころから語り合い、現在では親友みたいなものだ。姉妹なのに体形も性格も似ていないから、反発し合いつつも仲良くなれた。姉が私に譲ったものは、姉の興味が失せたものであり、姉から取り上げられたものは、私の興味のないものであった。譲った奪われたと言いつつ、どこかで納得していた。恋の話になっても姉は優等生的な男性が好きなのに対し、私はダメな男性が好きなので取り合いにはならない。それどころか、相手の恋人を「あんなヤツ、どこがいいの」と笑ってしまうほどだ。なのでドラマや漫画によくある、姉妹が恋人を取り合う話が全く理解できない。

 プライドが高く甘え下手な姉を少し気の毒に思うこともあった。姉が淡い想いを抱いていた近所のお兄さんは、いつも突然やってくる。最初の挨拶は必ず「妹ちゃんは、今日も可愛いね」だ。その度に姉は不機嫌になった。私もそのお兄さんのことは好きだったが、姉の関心を惹くために優しくしてくれていることを知っていた。「妹が会いたがってるから遊びに来て」と散々だしに使っておきながら、恋が成就しなかったことは私のせいではない。

 兄も弟もいない私には、兄弟の関係というものが未だによく分からない。『万葉集』の中大兄皇子と大海人皇子や、『三国志』の曹丕と曹植の関係から察するのみである。大海人皇子は、兄の中大兄皇子に妻であった額田王を奪われたため、壬申の乱を引き起こしたとの説がある。あくまでも伝説である。魏の英傑である曹操には、曹丕と曹植の二人の息子がいた。兄の曹丕は、弟の曹植の才を妬み、七歩あるく間に詩を詠まなければ死刑にすると迫る。曹植は、豆が同根から生じた枝葉を燃料として煮詰められることを詠み、兄の仕打ちを憂いた。その背景には、曹植と恋仲にあった甄氏が兄の妻となったからではないかとの伝説も残る。歴史的にみれば、弟の想い人が兄に奪われている、あるいは譲っているように理解することができる。

 平安歌人の伊勢は、藤原仲平とその兄の時平と恋愛関係を持つ。枇杷左大臣と呼ばれた弟の仲平よりも太政大臣であった兄の時平の方が地位が高いため、弟から兄に乗り換えたと考えられている。『和泉式部日記』の主人公である和泉式部は、恋人の為尊親王の死後、弟の敦道親王と恋仲になる。亡くなった恋人の弟に口説かれて困惑する描写はあるものの、深く愛し合うようになる。兄が生きていたら弟と恋に落ちることは無かったのだろう。兄弟が一人の女性を奪い合うこと、女性が兄弟の間を行き来することは、起こり得ることであった。背後には兄弟間の権力闘争がちらつく。兄弟というものは、権力や恋を巡り闘う宿命にあるのだ。

  弟へ恋と湯婆ゆたんぽゆづります   攝津幸彦

 掲句は、哀しくも理想的な兄を演じる男性の姿勢が描かれている。〈ゆづります〉という丁寧語もまた諦めのような境地を感じさせる。幼い頃から母親も服も玩具も弟に譲ってきた。寒い夜は、湯婆まで譲っていた。恐らくは、好きな食べ物なども譲ってきたのだろう。弟もまた、兄のものを羨ましがり欲しがった。「お兄さんなんだからあげなさい」と言われ育ってきたのなら、譲る癖もついてしまう。〈おはじきも白粉花も姉のもの 央子〉なんて句を詠んでいる私からしたら、素敵なお兄さんである。

 〈湯婆〉は、体を温めるために湯を入れて使用される容器で、寝る時に蒲団に入れる。現在では、ペットボトルなどでも代用される。足の冷える夜は、必須であった。私の幼い頃は、姉用と妹用の二人分あったが、湯を沸かすのに時間が掛かるため、早く床に入る私の分が先に渡された。姉としてはそれも譲っていると感じたのかもしれない。〈湯婆〉という暖かいものを譲ったことで寒い思いをしたきた兄、それが恋にまで展開するのが面白いところである。

 兄弟の関係が理解できない私ではあるが、とある兄弟と深く関わったことがある。大学3年生の冬に友人が働くスナックに飲みに行った。その日はカウンターの隅で不機嫌そうにウイスキーを呷る30歳のサラリーマンがいた。のん気な大学生の私には、仕事のことで落ち込む10歳ほど年上の男性が大人に映った。スーツも時計もブランド品で髪型もお洒落だ。酒が入ると陽気な性格になるらしく「弟を呼んでやるよ。美形だからびっくりするぞ」と言い、かなり強引な口調で電話を掛けていた。ほどなくして「兄貴、いい加減にしろよ。普段は無視する癖に、酔ったときだけ呼び出すな」と美形の弟がやってきた。弟は、26歳でゲーム機販売のアルバイトをしているという。スナックでは、真面目な兄と自由な弟という認識のようだった。最初に話をしていたのが兄だったこともあり、紆余曲折のすえに兄の方と交際することになった。ところがこの兄は、プライドが高く何でもかんでも否定的。仕事も忙しくあまり逢えない。傷ついた私は、スナックの常連となった弟に愚痴を聞いて貰うようになった。弟と飲んでいるときに限ってやって来るのもまたタイミングが悪い。「学生の分際で飲んでじゃねえよ。弟に俺の悪口言ってんだろ」と怒り出した。兄としては、自分に好意を持っている世間知らずな女子大生と付き合ってやっているのに、弟にも手を出すつもりかぐらいの気持ちだったのだろう。今考えれば、私のことなど好きでもなかったのだ。あっけなく振られてしまった。数か月後、傷心の私を気遣ってくれたのか、弟から映画に誘われた。映画を見て号泣する弟にこれまた惹かれてしまった私も悪い女である。弟とは、兄よりも深い交際になったが、些細なことから別れてしまった。兄は、私が弟と交際したことを知らない。でも知ったらきっと、譲ってやったと思うのだろうな。どちらが好きだったかと聞かれたら、弟の方だ。繊細で頼りないところが魅力的だった。

 世の中には、兄だからという理由で恋を弟に譲ってしまう人もいるのだと思う。弟が兄に譲るよりも現実的かもしれない。現代の弟はしたたかである。兄に対する劣等感を強みに変え、甘え上手で世渡りもうまい。あくまでもイメージだが。兄にとって弟は、ライバルだけれども、可愛いものだ。幼い頃は、無条件で自分を慕ってくれた、守らなければならない存在。だから〈譲ります〉。この場合、相手の女性の気持ちは無視なのだろうか。

篠崎央子


篠崎央子さんの句集『火の貌』はこちら↓】


【執筆者プロフィール】
篠崎央子(しのざき・ひさこ)
1975年茨城県生まれ。2002年「未来図」入会。2005年朝日俳句新人賞奨励賞受賞。2006年未来図新人賞受賞。2007年「未来図」同人。2018年未来図賞受賞。2021年星野立子新人賞受賞。俳人協会会員。『火の貌』(ふらんす堂、2020年)により第44回俳人協会新人賞。「磁石」同人。


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓


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>>〔57〕告げざる愛地にこぼしつつ泉汲む 恩田侑布子
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>>〔55〕青大将この日男と女かな      鳴戸奈菜
>>〔54〕むかし吾を縛りし男の子凌霄花   中村苑子
>>〔53〕羅や人悲します恋をして     鈴木真砂女
>>〔52〕ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき  桂信子
>>〔51〕夏みかん酢つぱしいまさら純潔など 鈴木しづ子
>>〔50〕跳ぶ時の内股しろき蟇      能村登四郎
>>〔49〕天使魚の愛うらおもてそして裏   中原道夫
>>〔48〕Tシャツの干し方愛の終わらせ方  神野紗希
>>〔47〕扇子低く使ひぬ夫に女秘書     藤田直子
>>〔46〕中年の恋のだんだら日覆かな    星野石雀
>>〔45〕散るときのきてちる牡丹哀しまず 稲垣きくの
>>〔44〕春の水とは濡れてゐるみづのこと  長谷川櫂
>>〔43〕人妻ぞいそぎんちやくに指入れて   小澤實
>>〔42〕春ショール靡きやすくて恋ごこち   檜紀代
>>〔41〕サイネリア待つといふこときらきらす 鎌倉佐弓


>〔40〕さくら貝黙うつくしく恋しあふ   仙田洋子
>〔39〕椿咲くたびに逢いたくなっちゃだめ 池田澄子
>〔38〕沈丁や夜でなければ逢へぬひと  五所平之助
>〔37〕薄氷の筥の中なる逢瀬かな     大木孝子
>〔36〕東風吹かば吾をきちんと口説きみよ 如月真菜
>〔35〕永き日や相触れし手は触れしまま  日野草城
>〔34〕鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし    三橋鷹女
>〔33〕毒舌は健在バレンタインデー   古賀まり子
>〔32〕春の雪指の炎ゆるを誰に告げむ  河野多希女
>〔31〕あひみての後を逆さのかいつぶり  柿本多映
>〔30〕寒月下あにいもうとのやうに寝て 大木あまり
>〔29〕どこからが恋どこまでが冬の空   黛まどか
>〔28〕寒木が枝打ち鳴らす犬の恋     西東三鬼
>〔27〕ひめはじめ昔男に腰の物      加藤郁乎
>〔26〕女に捨てられたうす雪の夜の街燈  尾崎放哉
>〔25〕靴音を揃えて聖樹まで二人    なつはづき
>〔24〕火事かしらあそこも地獄なのかしら 櫂未知子
>〔23〕新宿発は逃避行めき冬薔薇    新海あぐり
>〔22〕海鼠噛むことも別れも面倒な    遠山陽子
>〔21〕松七十や釣瓶落しの離婚沙汰   文挾夫佐恵

>〔20〕松葉屋の女房の円髷や酉の市  久保田万太郎
>〔19〕こほろぎや女の髪の闇あたたか   竹岡一郎
>〔18〕雀蛤となるべきちぎりもぎりかな 河東碧梧桐
>〔17〕恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 飯島晴子
>〔16〕月光に夜離れはじまる式部の実   保坂敏子
>〔15〕愛断たむこころ一途に野分中   鷲谷七菜子
>〔14〕へうたんも髭の男もわれのもの   岩永佐保
>〔13〕嫁がねば長き青春青蜜柑      大橋敦子
>〔12〕赤き茸礼讃しては蹴る女     八木三日女
>〔11〕紅さして尾花の下の思ひ草     深谷雄大
>>〔10〕天女より人女がよけれ吾亦紅     森澄雄
>>〔9〕誰かまた銀河に溺るる一悲鳴   河原枇杷男
>>〔8〕杜鵑草遠流は恋の咎として     谷中隆子
>>〔7〕求婚の返事来る日をヨット馳す   池田幸利
>>〔6〕愛情のレモンをしぼる砂糖水     瀧春一
>>〔5〕新婚のすべて未知数メロン切る   品川鈴子
>>〔4〕男欲し昼の蛍の掌に匂ふ      小坂順子
>>〔3〕梅漬けてあかき妻の手夜は愛す  能村登四郎
>>〔2〕凌霄は妻恋ふ真昼のシャンデリヤ 中村草田男
>>〔1〕ダリヤ活け婚家の家風侵しゆく  鍵和田秞子


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

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