ハイクノミカタ

嚙み合はぬ鞄のチャック鳥曇 山田牧【季語=鳥曇(春)】


嚙み合はぬ鞄のチャック鳥曇

山田牧

前々回(3/2分:鷹鳩と化して大いに恋をせよ 仙田洋子)の記事に出てきた「宵待屋珈琲店」の店主は山田ぼくさん。荻窪駅近くにある宵待屋さんには美味しいケーキや珈琲をいただきに行くのだが、牧さんに会うのも目的のひとつである。会うと言ってもお店の混み具合によってはオーダー以外の会話を遠慮することもある。それでもてきぱきと動く姿を見るのは心地良いものだ。

店の前には今日の一句がボードに書いて立てかけてある。控えめだが、それを見逃す俳人はいないであろう。店内の調度品、手書きのメニュー、その筆跡…これらひとつひとつに店主の人柄が現れていてプリンの甘み、珈琲の苦みを引き立てている。俳人が経営しているだけのことはあって俳人の姿もよく見かける。

名物メニューの「メリーゴーランド」はいただいたことがない。プリンのほかケーキ4種(まるごと1+ハーフ3)という夢のメニューだ。エッフェル塔が添えてあるのもポイントが高い。まだまだ通いたい理由がある。

その「宵待屋珈琲店」と俳人が集う「屋根裏バル 鱗kokera」がタッグを組んで結婚を祝ってくれたことは一生自慢の種となるだろう。ご準備いただいた「マンハッタン句会」の皆さまにも改めて感謝。

嚙み合はぬ鞄のチャック鳥曇

鞄のチャックが噛み合わないということは相当使い込んだか、あるいは詰め込みすぎか。いずれにしてもチャックをしめるのは荷造りの最終段階なのだから噛み合ってくれなくて焦っている姿が想像される。

「鞄」としか書いていないのに旅鞄を思ったのは季語の効果。渡り鳥が北方へ帰っていく姿を脳裏に描かれるからだ。「鳥帰る」ではなく「鳥曇」とした点からはチャックが噛み合わない小さな焦燥が伝わってくる。

「チャック」はファスナーの商標名の一つなので使う場面を選ぶが、この作者でこの作品ならファスナーやジッパーなどというすました言い方は似合わない。「嚙」「鞄」と「か」のたたみかけから「チャック」まで破裂音の連続が噛み合わなさを表現している。しかも「鞄」。「バッグのファスナー」だったら噛み合わなくてもたいしたことないように感じられる。

作者は「未来図」所属時代に第一句集『星屑珈琲店』を上梓。掲句は「磁石」に移行してから編んだ第二句集『青き方舟』から引いた。

チャックまでチャーミングなものにしてしまう素敵な店主に是非一度会いに行ってみて下さい。

『青き方舟』(2022年刊)所収。

吉田林檎


【執筆者プロフィール】
吉田林檎(よしだ・りんご)
昭和46年(1971)東京生まれ。平成20年(2008)に西村和子指導の「パラソル句会」に参加して俳句をはじめる。平成22年(2010)「知音」入会。平成25年(2013)「知音」同人、平成27年(2015)第3回星野立子賞新人賞受賞、平成28年(2016)第5回青炎賞(「知音」新人賞)を受賞。俳人協会会員。句集に『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)


【吉田林檎さんの句集『スカラ座』(ふらんす堂、2019年)はこちら ↓】



【吉田林檎のバックナンバー】
>>〔92〕卒業歌ぴたりと止みて後は風 岩田由美
>>〔91〕鷹鳩と化して大いに恋をせよ 仙田洋子
>>〔90〕三椏の花三三が九三三が九 稲畑汀子
>>〔89〕順番に死ぬわけでなし春二番 山崎聰
>>〔88〕冴返るまだ粗玉の詩句抱き 上田五千石
>>〔87〕節分や海の町には海の鬼 矢島渚男
>>〔86〕手袋に切符一人に戻りたる 浅川芳直
>>〔85〕マフラーを巻いてやる少し絞めてやる 柴田佐知子
>>〔84〕降る雪や玉のごとくにランプ拭く 飯田蛇笏
>>〔83〕ラヂオさへ黙せり寒の曇り日を 日野草城
>>〔82〕数へ日の残り日二日のみとなる 右城暮石
>>〔81〕風邪を引くいのちありしと思ふかな 後藤夜半
>>〔80〕破門状書いて破れば時雨かな 詠み人知らず
>>〔79〕日記買ふよく働いて肥満して 西川火尖
>>〔78〕しかと押し朱肉あかあか冬日和 中村ひろ子(かりん)
>>〔77〕命より一日大事冬日和 正木ゆう子
>>〔76〕冬の水突つつく指を映しけり 千葉皓史
>>〔75〕花八つ手鍵かけしより夜の家 友岡子郷
>>〔74〕蓑虫の蓑脱いでゐる日曜日 涼野海音
>>〔73〕貝殻の内側光る秋思かな 山西雅子
>>〔72〕啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋櫻子
>>〔71〕天高し鞄に辞書のかたくある 越智友亮
>>〔70〕また次の薪を火が抱き星月夜 吉田哲二
>>〔69〕「十六夜ネ」といった女と別れけり 永六輔
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>>〔66〕秋鯖や上司罵るために酔ふ 草間時彦
>>〔65〕さわやかにおのが濁りをぬけし鯉 皆吉爽雨
>>〔64〕いちじくはジャムにあなたは元カレに 塩見恵介
>>〔63〕はるかよりはるかへ蜩のひびく 夏井いつき
>>〔62〕寝室にねむりの匂ひ稲の花  鈴木光影
>>〔61〕おほぞらを剝ぎ落したる夕立かな 櫛部天思
>>〔60〕水面に閉ぢ込められてゐる金魚 茅根知子
>>〔59〕腕まくりして女房のかき氷 柳家小三治
>>〔58〕観音か聖母か岬の南風に立ち 橋本榮治
>>〔57〕ふところに四万六千日の風  深見けん二
>>〔56〕祭笛吹くとき男佳かりける   橋本多佳子
>>〔55〕昼顔もパンタグラフも閉ぢにけり 伊藤麻美
>>〔54〕水中に風を起せる泉かな    小林貴子
>>〔53〕雷をおそれぬ者はおろかなり    良寛
>>〔52〕子燕のこぼれむばかりこぼれざる 小澤實
>>〔51〕紫陽花剪るなほ美しきものあらば剪る 津田清子
>>〔50〕青葉冷え出土の壺が山雨呼ぶ   河野南畦
>>〔49〕しばらくは箒目に蟻したがへり  本宮哲郎
>>〔48〕逢はぬ間に逢へなくなりぬ桐の花 中西夕紀
>>〔47〕春の言葉おぼえて体おもくなる  小田島渚
>>〔46〕つばめつばめ泥が好きなる燕かな 細見綾子
>>〔45〕鳴きし亀誰も聞いてはをらざりし 後藤比奈夫
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>>〔16〕寝そべつてゐる分高し秋の空   若杉朋哉
>>〔15〕一燈を消し名月に対しけり      林翔
>>〔14〕向いてゐる方へは飛べぬばつたかな 抜井諒一
>>〔13〕膝枕ちと汗ばみし残暑かな     桂米朝
>>〔12〕山頂に流星触れたのだろうか  清家由香里
>>〔11〕秋草のはかなかるべき名を知らず 相生垣瓜人

>>〔10〕卓に組む十指もの言ふ夜の秋   岡本眸
>>〔9〕なく声の大いなるかな汗疹の児  高濱虚子
>>〔8〕瑠璃蜥蜴紫電一閃盧舎那仏    堀本裕樹
>>〔7〕してみむとてするなり我も日傘さす 種谷良二
>>〔6〕香水の一滴づつにかくも減る  山口波津女
>>〔5〕もち古りし夫婦の箸や冷奴  久保田万太郎
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎     神野紗希
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる  岸本葉子
>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな    蜂谷一人


【セクト・ポクリット管理人より読者のみなさまへ】

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