白夜の忠犬百骸挙げて石に近み 中村草田男【季語=白夜(夏)】


白夜の忠犬百骸挙げて石に近み)

中村草田男

 第8句集『時機(とき)』は草田男が生前に編んだ最後の句集であり、第7句集『美田』の13年後にあたる昭和55年(1980/草田男79歳)に刊行された。内容は『美田』につづく昭和34年から同37年までの作品から439句を自選し、それに昭和47年作の群作37句を加えたものである。

 草田男は昭和58年(1983年/草田男82歳)で逝去したため、昭和38年から昭和58年の20年間の5000句余りの作品は、句集として上梓されることはなく、昭和59年(1984年)に草田男全集第5巻に収録されるものの、平成15年(2003年)に遺句集として精選され第9句集の『大虚鳥』が刊行されるまで、『萬緑』の誌内での発表に留まり、世に問われないままでいた。

 2021年に刊行され、今年の3月に第37回俳人協会評論賞を受賞した故渡辺香根夫氏の『草田男深耕』は、草田男晩年のその20年間の作品を、そして草田男俳句の詩世界・精神世界の全貌を研究するうえで、ほとんど唯一と言っていい評論であり、再読三読が願われることは間違いない。

    ☆

 『時機』に収められている句の昭和34年から同37年の間の草田男の出来事を以簡単にまとめてみよう。

 昭和34年(1959/草田男58歳)、虚子が逝去し、星野立子・石田波郷と共選で虚子没後の朝日俳壇の選者となる。

 昭和35年(1960/草田男59歳)には、現代俳句協会幹事長に就任するが、翌年の昭和36(1961/草田男60歳)の11月には、現代俳句協会内の前衛俳句批判に端を発した紛争(論争)から、幹事長の職を辞することとなる。その後、有季定型を守る同志と共に、「俳人協会」を発足させ、初代会長に就任する。

 昭和37年(1962/草田男61歳)には、「俳句」1月号にて金子兜太との往復書簡にて再び前衛俳句を痛烈に批判するも、同年5月には自ら発足した「俳人協会」の会長の職を、健康上の理由で辞することとなる。

 以上が昭和34年から同37年の主な出来事であるが、それにしてもこの4年間の間に、師・高浜虚子の死、前衛俳句との論争、現代俳句協会からの脱会と俳人協会の発足等、実に激流の4年間であったことは容易に想像できる。

 還暦を迎えても、まだ草田男自身は多作期・円熟期の渦中にあり、「活眼や肉眼泉に洗ひつる」「()の花衣緋の一筋は血の(あかし)」「終生まぶしきもの女人ぞと泉奏づ」などの、思想の結晶を成就した秀句が次々と作られ、その衰えを知らなかった。

 求道への深化、およびある意味では諦念とも取れる重い翳を帯びた心境の変化があったのもこの時期であり、草田男三女の中村弓子氏は、「俳人協会のゴタゴタが契機ともなっていたのだろうが、60歳前後、父が俳句や俳人について語るとき、どこか、失恋を心の奥深く隠している人のような表情が浮かぶようになったのを私は感じていた」と、当時の草田男を回顧する。

 また草田男は、ちょうど還暦を迎える少し前の作品で、『時機』に収められた連作「木賊刈り」(後述)の解説をする際に、「この一篇こそ、自分の心の永遠の守り主そのものへの思い出を慕って、一川の源へ果てしなく分け入ってはみるものの、その願望は空しく果されることがない」という内容であると書いており、草田男はこの時期、自然の中に絶対的な「知られざる神」との出会いを求めていたものの、それがやはり不可能なことであるということを感じていたのではなかろうか。

『時機』には、そのような草田男のいわば鬱塞性とも言える内奥を示した句を抄出することが出来る。

寒卵歴史に疲れざらんとす       草田男(『時機』より)

にはとりも蝌蚪もおどろきをすぐ忘る

白馬の眼繞る癇脈雪の富士

旧景が闇を脱ぎゆく大旦(おほあした)

基督は癒えし者の眼蔦散り尽き

冬濤や懺悔の(はて)の白勢ひ

向日葵や贖罪を蕊とせし半生

    ☆

 『時機』の大きな特徴の一つは、草田男自身も『時機』の跋にて「一切を内的生命の衝迫と流動との必然性と有機性との(うち)に終始させようと決意し配慮しつづけ」、創作したと自負している四篇の群作を収めたところにある。制作順は「保名」「木賊刈」「直侍」、そして「メランコリア」である。「メランコリア」のみ、この句集の制作年と違い、昭和47年の作である。草田男がこの機会に群作を一括するために敢えて追加したという。

 この4つの群作の共通点が、自然の実景ではなく、演じられるもの、描かれたものが群作の対象としていることである。「保名(やすな)」「直侍(なおざむらい)」はそれぞれ歌舞伎の演目の俳句化であり、「木賊(とくさ)刈」は北斎の画に感興を覚え、それを俳句化したもの。「メランコリア」はドイツのルネサンス期の芸術家アルブレヒト・デューラーの版画「メランコリアⅠ」の俳句化である。

 なかでも「メランコリア」は、同じくデューラーの版画「騎士と死と悪魔」を対象として詠んだ群作「騎士」13句(『来し方行方』)からつながるものであり、生野幸吉や由良君美、石田穰二といった西欧文学研究者や詩人、ないしは国文学者といった面々が、その俳句化としての再現力もさることながら、一箇の詩世界としての完成度を高く評価している。

    ☆

 掲句はその「メランコリア」のなかの一句であるが、評するうえで一度、群作「メランコリア」全体を見ていきたい。以下の版画、群作の前書き、脚註は全て句集『時機』の通りであり、草田男自身が著したものである。

(以下『時機』より抜粋)

《メランコリア》(1514年)

 三大版画の中でもその意味のもっとも謎めいた作品として、様々な解釈の試みがなされてきた。デューラーがこの作品において、メランコリアを無為の病的な状況と見做す中世以来の四気質説の解釈を捨てて、これを瞑想的、創造的、知的な人間が陥り易い傾向と見做す古代のアリストテレスにまで遡る解釈に基づいていることは確かであり、土星(注一)をメランコリアの星であるとする占星術の諸観念もこれに取り入れられている。この深々と坐った有翼の婦人は全く絶望的な無為の状態に陥っているのではなく、土星と対抗する木星を象徴する「魔法(注二)の桝目」や、彼女の頭のテウクリウム(注三)という薬草の冠によって、土星の完全な影響力は抑止されており、石うす(注四)の上で熱心に書き物をする幼児(注五)も彼女の本来の姿を暗示する。彼女の周囲の乱雑といえるような状態で配置された様々の事物は計器類、工作道具類、立体幾何学的工作物、錬金術のるつぼなどに大別されるが、それらはいずれも芸術家、建築家、職人、また数学、幾何学に基づく学問をになう者に関係する。遠景の土星に発する光の不穏な顫光現象は画面全体に波及して、画面には《屋内(注六)の聖ヒエロニムス》と対照的な気分が漂っている。パノフスキーはこの作品において「デューラーの精神的自画像」を見出した。

蝙蝠飛んで白夜((注八))は昼夜の(ほか)の刻

蝙蝠白しオーロラ((注九))は自意の七色に

((注七))は神の、オーロラは存在の誓約か

白蝙蝠冲天の軟体(いこひ)()なし

両翼上に銘「メランコリア」首鼠(しゅそ)蝙蝠

(たい)オーロラ櫛曳く放散土星((注一))

オーロラは薙鎌や弧の(せな)厚く

オーロラ恒座大振鈴の紐不動(うごかず)

白夜の楣間(びかん)大源「(トット)」の砂時計

白夜の「数譜((注二))」世紀の数なる「15」に尽く

秤の皿(むな)し白夜に右と左

犬なれど「香函(かうばこ(注十二))つくる」白夜に(しろ)

白夜の忠犬膝下(たふ)下に眼落としつ

白夜の忠犬軀畳みたたむ一令無み

白夜の忠犬百骸挙げて石に近み

オーロラのみ多彩個々物無機の白

結晶体白夜に(ただ)(きう)或るは多面

白夜の輪廻(りんね)石の条紋年輪相

白夜の(のこ)厚し白夜の音を()

白夜の(かんな)重し白夜の気を()らす

土星とオーロラ至近や釘と槌(へだ)たる

白夜の釘抜(くぎぬき)抜本の露頭(はく)に紛れ

白夜は北限姉((注五))計器と秘冊弓手(ゆんで)馬手(めて)

弟天使白夜の昏夜を石貨((注四))に乗り

動意なきサンダル白夜に裳裾垂れて

白夜のガウン厚きも膝へ肘尖(ひぢさき)()

オーロラ半円拡ぐるコンパス無限大へ

オーロラ凝視姉天使白眼(はくがん(注十一))(そく)青眼(せいがん)

姉の長眉(ちやうび)(かた)しオーロラへ愁眉挙ぐ

白夜に語らず信の姉の辺知の弟

信の()と知の代のあはひ白蝙蝠

信と知の相殺(さうさい)の空白蝙蝠

白夜に飛ぶ一朱火錬金の坩堝(るつぼ)より

両翼凭る青穂((注三))(かんむり)直立(すぐたち)

白夜に(しろがね)巨き主鍵と鍵束と

オーロラ一つ梯子の桟の間に遠市(ゑんし)

注一 私は「土星」をメランコリアの星とみなす占星術の観念にそのまま従いはしない。むしろ、白夜とオーロラの現象を惹きおこしている定かな光源を想定したかった。

注二 「魔法の桝目」とだけ解釈しないで、無限に流れる時間の現象の全体に相渉る「数譜」と理解したかった。

注三 これも亦、木星の土星への「対抗」の象徴としてだけでなく、それ自身の内蔵する生気そのものの発現相と採りたかった。

注四 「石うす」なりとする解釈は形態上甚だ疑問がある。価値の代置物であり、しかも未だ無用物の形態裡にある原始的な「石貨」の姿と、私の眼には映ったのである。

注五 ただの「幼児」ではない。女人天使の同胞としての有翼の小天使

注六 《屋内の聖ヒエロニムス》の銅版画の画面は、他の二つの銅版画の内的世界、瞑想と行動、それのダイアレクテイクの必然性を暗示して、一種のカタルシスを遂げ得た後の、しばしの静謐さのようなものが満ちわたっている。

注七 「虹」現象はノアの洪水直後の神の誓約。

注八 「白夜」をこの一聯作品に関する限りにおいて、夏季の季語と認定する。

注九 「オーロラ」、右と同断。

注十 右の二注に述べたことのこの発動実践は、有季写生道の本旨と矛盾撞着するものではないと信じる。

注十一 「白眼」は他者を受け納れない場合の双眼の色。「青眼」は他者をも無碍に受け納れる場合の双眼の色。

注十二 「火の島三日」の群作中に、三原山火口附近での「犬なれど香函造る暑き硫気」の一作が含まれている。写生句であるが、私の脳裏には、この「メランコリア」図中の犬の姿が鮮かに重ね写真となっていたことを想起する。

    ☆

 この群作を理解するうえで、草田男がパノフスキーの説を基に独自の捉え方でこの版画を解釈し、俳句化を試みたのは、長い前書きを読めば明らかである。

 しかしひとまずは、「メランコリアⅠ」の定説とも呼べる解釈を見ていかなければならないだろう。(この版画の解釈は種々様々であるが、本稿では、「メランコリアⅠ」の基本的な研究書であるパノフスキーとザクスルの『土星とメランコリー』、イエイツの『魔術的ルネサンス』を参考にした。)

 アルブレヒト・デューラーは1471年にドイツのニュルンベルクで生まれ、1528年に逝去した。同時代にはミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチといったルネサンスを代表する芸術家もいるが、宗教改革をおこしたルターと同国かつ同時代であり、ルターの思想の共鳴者でもあった。

 エルンスト・トレルチは『ルネサンスと宗教改革』にて、「ゲルマン世界におけるルネサンスとは宗教改革なのだ」と言っており、免罪符といった真実の信仰とは相反する権力の濫用に対して、抗議(プロテスト)を唱えたルターによる宗教改革は、14世紀にはじまる人文主義思想のゲルマン的帰結であると語る。

 人文主義というのは、キリスト教を盲目的に信じるのではなく、プラトンやアリストテレス、キケロやセネカなどのギリシャ・ローマの古典(非キリスト教)の古典を読み、その思想や知識をもつことを指している。そういった書物を読むことによって、キリスト教以外の世界観を知り、知的まなざしで世界を再構築し、盲目的に信仰してきたキリスト教についても異議を唱え始めた。この流れの中、デューラーもルター派に入り、新たな世界を切り開こうとしたのであった。

 こうした時代背景の中、デューラーは「メランコリアⅠ」の作製に取り掛かるのである。

 また、「メランコリアⅠ」を解釈するうえで、理解しておかなければならない要素が、四性論(四気質論)である。

 中世ヨーロッパでは、元来万物を合成しているのは四つの元素であるという考えがあり、人間の個性をつくっている気質も、四つの元素の支配によるものだという考えがあった。そのことから、陽気で多血質は空気、怒りっぽい胆汁質は火、怠惰な粘液質は水、冷酷な憂鬱質は土が支配していると考えられていた。

 そして、前述の人文主義により広まった占星術を根底においた医学書では、この気質が支配するのは、出生時の星の位置に関係があり、憂鬱質(メランコリー)な人間は土星の支配を受けているとされていた(ちなみに多血質は木星、胆汁質は火星、粘液質は月の支配を受ける)。また、土星の星座は、すべて土に関係している高利貸し、農民、測量、計算(幾何学)などの職業がむいているとされ(ちなみにパノフスキーは、版画に描かれている機械的な仕事道具は「幾何学」の寓意だとしている)、中世では暗いイメージをもつものであり、いわば差別的な扱いをされた気質であるといっていい。

 このように、性格はその人の欠点ではなく、いわば運命と考えられており、大自然の作用の一環であるとされていた。しかし、人が正しい作用をそれらの星や元素に働きかけることによって、自分自身の運命を好転できるという考えがあり、この人間側からの働きかけを、「魔術」と当時の人々は呼び、星の作用を利用して暗い性格を直したり、病気を癒すことが出来たりするとされていた。

 なかでも、新プラトン主義に代表されるマルシリオ・フィチーノは自身の著書(『三重の生』)で、憂鬱質の狂気を避け、活動的な木星や明るい金星の力を借りれば、創造的天才あるいは予言的能力を発揮できるというやり方を教えており、いわゆる神秘主義的な思想が現れている。

 とりわけデューラーに大きな影響を与えた人物が、ネテスハイムのアグリッパである。デューラーはアグリッパの著書『オカルト哲学について』を典拠として〈メランコリアⅠ〉を制作したと言われており、アグリッパがその著書で、憂鬱質な人間の霊感の作用を三つの段階にまとめているのだが、その一つ目の段階がまさに〈メランコリアⅠ〉と一致しており、版画の背景の洪水や彗星や虹などの自然現象はこれで説明ができる(下記図参照)。

 以上の事からこの版画は、古代ギリシャ以来の四気質のうちの「黒胆汁質(憂鬱質)」と、「幾何学」の寓意像を融合させたイメージであり、両者を結びつけるのが土星であるとされている。

 この「憂鬱質」は内的な思いにむかい、道具類は無用に見えるので、あきらかにここでは手先の仕事よりも、ものを考える知性の優位性が見て取れる。

 また、パノフスキーによれば、これは霊感を受けた天才の挫折感であり、苦悩する芸術家の精神的自画像としたが、イエイツの解釈によれば、この版画は憂鬱質が天使の翼によって最高位の霊感を得て、大いなる権威を獲得しているありさまを表しており、そこから浮かび上がってくるのは、挫折感を伴う憂鬱ではなく、瞑想し解釈し、創造する魂としての芸術家の姿であるとしている。

 そこには、ミケランジェロの「預言者エレミヤ」しかり、ラファエロの「アテネの学堂」のなかの自画像を模したヘラクレイトスしかり、キリスト教の盲目的信仰に相反して、思考する自我が近代において重要な位置をしめてきたことのしるしがあると言えるだろう。

 以上が〈メランコリアⅠ〉の定説と呼べる解釈であるが、まだまだ論考が不十分であり、一句一句の解釈や理解を評することは到底できない。

 しかし、改めて草田男の群作〈メランコリア〉を通読すると、草田男はパノフスキーとイエイツの解釈を相混淆した捉え方でこの版画を解釈したのではないかという事が見えてくる。

「その願望は空しく果されることがない」と草田男に言わしめた、前述の60歳前後のいわば諦念とも取れる鬱塞性も加担して、この版画に、苦悩する詩人の精神的自画像としての姿を目の当たりにし、且つ、瞑想し創造する魂としての芸術家の姿を見出したのではなかろうか。

    ☆

 さて掲句であるが、まず「百骸」で想起されるのは、やはり芭蕉の『芳野紀行』(『笈の小文』)であるだろう。

 この紀行文の冒頭はこのように始まる。

「百骸九竅の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。かれ狂句を好むこと久し。終に生涯のはかりごとゝなす。」

 草田男は、「事実としていつまでも忘れ兼ねている断章」としてニーチェの『この人を見よ』での最後の個所「斯くしてデカダンスが癒えた」を挙げ、「意義の上で忘れてはなるまじきものと信じている断章」に、『芳野紀行』のこの冒頭を挙げている。

 草田男はこの冒頭を、「人として詩人としての芭蕉個人の生きてゆく態度を本質論として彼自身が銘記しているのは、この一個所に尽きる」と言っており、芭蕉がまさに、自己の存在と自己の肉体の無常の真実のおそろしさに目覚め、それからくる不安と動揺の救済を求めるが故に、風羅坊として文芸道(俳諧)へと歩み始めたことを示しているとしている。

 ちなみに「挙げて」とは、「残らず。ことごとく」という意味での「挙げて」であり、「国を挙げて祝う」といった用途で使われる「挙げて」と同義である。

 それでは、「百骸挙げて」いる主体は誰かというと、草田男は群作の注十二で、「『火の島三日』の群作中に、三原山火口附近での『犬なれど香函造る暑き硫気』の一作が含まれている。写生句であるが、私の脳裏には、この「メランコリア」図中の犬の姿が鮮かに重ね写真となっていたことを想起する」とわざわざ書き添えてはいるが、やはりここは「忠犬」=「芭蕉」なのではないかと思えてならない。だからこそ草田男は「百骸」という言葉をわざわざ使用し、忠犬に風来坊としてのその姿を託したかったのではないだろうか。

 次に「近み」の文法的な解釈であるが、これは、形容詞の語幹に「む」という接尾語をつけて自動詞にした語である。

 例えば、「高し」という形容詞の語幹である「高」に「む」という接尾語をつけて「高む」という動詞になったり、他にも、「痛し」が「痛む」、「暗し」が「暗む」になったりなど限りがない。

 掲句の場合でも、「近み」は「近し」の動詞の連用形であり、その意味は「近づく/近くなる」という事である。

 ちなみに、群作で掲句の一つ前の「白夜の忠犬軀畳みたたむ一令無み」の「無み」は、同じ語法ではなく、順接の接続の役割を果たす「み」であり、「~なので」という意味の語である。たとえば、「母が忌の近みふふむよ山桜」という句では、「母の忌が近いので」という意味合いになる。「一令無み」の場合だと、「主人の絶対の命令も今は無いので」という意味になろう。

 それでは「石」とはなんであるか。

 版画でいうと、この「石」は犬の後ろにある多面体の事であるだろうが、この多面体について、実は定説というものがない。しかし、デューラーが傾倒した新プラトン主義におけるオカルト思想の中に、「磨いてない石は粗野な状態の人間であって。石を成型して磨いていくという彫刻家や建築家の行為、物質から精神への向上が表象される」という思想がある。つまりは、磨いてない状態の石に、気高い形を与えたときに、物質は精神を獲得するという風に考えられており、彫刻家や建築家の行為は気高いものとされていた。そういった意味合いで、この版画の多面体も「粗野な人間」の寓意ではないかと捉えることが出来、「石=粗野な人間」の事ではないかと推察できる。

 以上が本稿での掲句の解釈であり、その論考をまとめると、「白夜の忠犬(=芭蕉)は、己が総身(百骸)を挙げてその道を進むも、ようやく粗野な人間に近づくということなのか」という意味合いになり、この句においても、草田男の絶対的なるものへの求道の揺らぎが感じ取ることができる。

 また、草田男は、芭蕉の作品中でも無類に好きなものに「能なしのねむたし我を行々子」という句を挙げており、掲句の根底には、この「能なしの」の句があったのではなかろうか。草田男はこの句について、『芳野紀行』や『幻住庵記』などの散文中で吐露した「『百骸九竅の中に物有り……』『つらつら年月の移りこし拙き身の科を思ふに……』に始まって『終に無能無才にして此の一筋につながる』の語に終る、あの彼のギリギリの人生体験の結論と決意と告白とが、ここに韻文の性能の極限で表白され」、「市民としての『自省』と、詩人としての『自恃』が、運命的に一枚になっている」と語り、人間としての、また詩人としての本音とも言える内奥を見つめている。そういえば、版画での犬は眠たそうにしているようにも見えなくもないのだ。

 そして、何より忘れてはならないのが、季語というはたらきである。デューラーの版画自体、様々な寓意に溢れており、その俳句化としても様々な寓意に溢れるものであるが、掲句及び群作すべてに於いて、季語のみが寓意化されておらず、季語そのものとして詠まれている。

元来、季語という言葉を信じ、山口誓子との論争でも知られている通り季語の寓意化を徹底批判した草田男にとって、やはり季語というものは絶対的な真実であったのであろう。

 「白夜」というものは、深夜になっても北の地平線に薄明けの残っている現象である。それは、闇夜のように静寂を極めたものではない。そこには、百骸挙げて俳諧の道をひたむきに歩んだ忠犬へのいわば存在証明(許され)として、また、ひとつの諦念として塞いでいる草田男の前に絶対的な真実として、浩々とした明るい夜が広がっているのである。

北杜駿


【執筆者プロフィール】
北杜駿(ほくと・しゅん)
1989年生まれ。千葉県出身。現在は山梨県在住。2019年「森の座」入会、横澤放川に師事。2022年星野立子新人賞受賞。2023年森の座新人賞受賞。「森の座」同人。
Email: shun.hokuto@outlook.com


2020年10月からスタートした「ハイクノミカタ」。【シーズン1】は、月曜=日下野由季→篠崎央子(2021年7月〜)、火曜=鈴木牛後、水曜=月野ぽぽな、木曜=橋本直、金曜=阪西敦子、土曜=太田うさぎ、日曜=小津夜景さんという布陣で毎日、お届けしてきた記録がこちらです↓



【2023年7月の火曜日☆北杜駿のバックナンバー】

>>〔5〕「我が毒」ひとが薄めて名薬梅雨永し 中村草田男

【2023年7月の水曜日☆小滝肇のバックナンバー】

>>〔5〕数と俳句(一)

【2023年7月の木曜日☆近江文代のバックナンバー】

>>〔10〕来たことも見たこともなき宇都宮 筑紫磐井

【2023年6月の火曜日☆北杜駿のバックナンバー】

>>〔1〕田を植ゑるしづかな音へ出でにけり 中村草田男
>>〔2〕妻のみ恋し紅き蟹などを歎かめや  中村草田男
>>〔3〕虹の後さづけられたる旅へ発つ   中村草田男
>>〔4〕鶏鳴の多さよ夏の旅一歩      中村草田男

【2023年6月の水曜日☆古川朋子のバックナンバー】

>>〔6〕妹の手をとり水の香の方へ 小山玄紀
>>〔7〕金魚屋が路地を素通りしてゆきぬ 菖蒲あや
>>〔8〕白い部屋メロンのありてその匂ひ 上田信治

【2023年5月の火曜日☆千野千佳のバックナンバー】

>>〔5〕皮むけばバナナしりりと音すなり 犬星星人
>>〔6〕煮し蕗の透きとほりたり茎の虚  小澤實
>>〔7〕手の甲に子かまきりをり吹きて逃す 土屋幸代
>>〔8〕いつまでも死なぬ金魚と思ひしが 西村麒麟
>>〔9〕夏蝶の口くくくくと蜜に震ふ  堀本裕樹

【2023年5月の水曜日☆古川朋子のバックナンバー】

>>〔1〕遠き屋根に日のあたる春惜しみけり 久保田万太郎
>>〔2〕電車いままつしぐらなり桐の花 星野立子
>>〔3〕葉桜の頃の電車は突つ走る 波多野爽波
>>〔4〕薫風や今メンバー紹介のとこ 佐藤智子
>>〔5〕ハフハフと泳ぎだす蛭ぼく音痴 池禎章

【2023年4月の火曜日☆千野千佳のバックナンバー】

>>〔1〕春風にこぼれて赤し歯磨粉  正岡子規
>>〔2〕菜の花や部屋一室のラジオ局 相子智恵
>>〔3〕生きのよき魚つめたし花蘇芳 津川絵理子
>>〔4〕遠足や眠る先生はじめて見る 斉藤志歩

【2023年4月の水曜日☆山口遼也のバックナンバー】

>>〔6〕赤福の餡べつとりと山雪解 波多野爽波
>>〔7〕眼前にある花の句とその花と 田中裕明
>>〔8〕対岸の比良や比叡や麦青む 対中いずみ
>>〔9〕美しきものに火種と蝶の息 宇佐美魚目

【2023年3月の火曜日☆三倉十月のバックナンバー】

>>〔1〕窓眩し土を知らざるヒヤシンス 神野紗希
>>〔2〕家濡れて重たくなりぬ花辛夷  森賀まり
>>〔3〕菜の花月夜ですよネコが死ぬ夜ですよ 金原まさ子
>>〔4〕不健全図書を世に出しあたたかし 松本てふこ【←三倉十月さんの自選10句付】

【2023年3月の水曜日☆山口遼也のバックナンバー】

>>〔1〕鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波
>>〔2〕砂浜の無数の笑窪鳥交る    鍵和田秞子
>>〔3〕大根の花まで飛んでありし下駄 波多野爽波
>>〔4〕カードキー旅寝の春の灯をともす トオイダイスケ
>>〔5〕桜貝長き翼の海の星      波多野爽波

【2023年2月の火曜日☆鈴木総史のバックナンバー】

>>〔6〕立春の零下二十度の吐息   三品吏紀
>>〔7〕背広来る来るジンギスカンを食べに来る 橋本喜夫
>>〔8〕北寄貝桶ゆすぶつて見せにけり 平川靖子
>>〔9〕地吹雪や蝦夷はからくれなゐの島 櫂未知子

【2023年2月の水曜日☆楠本奇蹄のバックナンバー】

>>〔1〕うらみつらみつらつら椿柵の向う 山岸由佳
>>〔2〕忘れゆくはやさで淡雪が乾く   佐々木紺
>>〔3〕雪虫のそつとくらがりそつと口笛 中嶋憲武
>>〔4〕さくら餅たちまち人に戻りけり  渋川京子

【2023年1月の火曜日☆鈴木総史のバックナンバー】

>>〔1〕年迎ふ父に胆石できたまま   島崎寛永
>>〔2〕初燈明背にあかつきの雪の音 髙橋千草
>>〔3〕蝦夷に生まれ金木犀の香を知らず 青山酔鳴
>>〔4〕流氷が繋ぐ北方領土かな   大槻独舟
>>〔5〕湖をこつんとのこし山眠る 松王かをり

【2023年1月の水曜日☆岡田由季のバックナンバー】

>>〔1〕さしあたり坐つてゐるか鵆見て 飯島晴子
>>〔2〕潜り際毬と見えたり鳰     中田剛
>>〔3〕笹鳴きに覚めて朝とも日暮れとも 中村苑子
>>〔4〕血を分けし者の寝息と梟と   遠藤由樹子

【2022年11・12月の火曜日☆赤松佑紀のバックナンバー】

>>〔1〕氷上と氷中同じ木のたましひ 板倉ケンタ
>>〔2〕凍港や旧露の街はありとのみ 山口誓子
>>〔3〕境内のぬかるみ神の発ちしあと 八染藍子
>>〔4〕舌荒れてをり猟銃に油差す 小澤實
>>〔5〕義士の日や途方に暮れて人の中 日原傳
>>〔6〕枯野ゆく最も遠き灯に魅かれ 鷹羽狩行
>>〔7〕胸の炎のボレロは雪をもて消さむ 文挾夫佐恵
>>〔8〕オルゴールめく牧舎にも聖夜の灯 鷹羽狩行
>>〔9〕去年今年詩累々とありにけり  竹下陶子

【2022年11・12月の水曜日☆近江文代のバックナンバー】

>>〔1〕泣きながら白鳥打てば雪がふる 松下カロ
>>〔2〕牡蠣フライ女の腹にて爆発する 大畑等
>>〔3〕誕生日の切符も自動改札に飲まれる 岡田幸生
>>〔4〕雪が降る千人針をご存じか 堀之内千代
>>〔5〕トローチのすつと消えすつと冬の滝 中嶋憲武
>>〔6〕鱶のあらい皿を洗えば皿は海 谷さやん
>>〔7〕橇にゐる母のざらざらしてきたる 宮本佳世乃
>>〔8〕セーターを脱いだかたちがすでに負け 岡野泰輔
>>〔9〕動かない方も温められている   芳賀博子

【2022年10月の火曜日☆太田うさぎ(復活!)のバックナンバー】

>>〔92〕老僧の忘れかけたる茸の城 小林衹郊
>>〔93〕輝きてビラ秋空にまだ高し  西澤春雪
>>〔94〕懐石の芋の葉にのり衣被    平林春子
>>〔95〕ひよんの実や昨日と違ふ風を見て   高橋安芸

【2022年9月の水曜日☆田口茉於のバックナンバー】

>>〔5〕運動会静かな廊下歩きをり  岡田由季
>>〔6〕後の月瑞穂の国の夜なりけり 村上鬼城
>>〔7〕秋冷やチーズに皮膚のやうなもの 小野あらた
>>〔8〕逢えぬなら思いぬ草紅葉にしゃがみ 池田澄子

【2022年9月の火曜日☆岡野泰輔のバックナンバー】

>>〔1〕帰るかな現金を白桃にして    原ゆき
>>〔2〕ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ なかはられいこ
>>〔3〕サフランもつて迅い太子についてゆく 飯島晴子
>>〔4〕琴墜ちてくる秋天をくらりくらり  金原まさ子

【2022年9月の水曜日☆田口茉於のバックナンバー】

>>〔1〕九月来る鏡の中の無音の樹   津川絵理子
>>〔2〕雨月なり後部座席に人眠らせ    榮猿丸
>>〔3〕秋思かがやくストローを嚙みながら 小川楓子
>>〔4〕いちじくを食べた子供の匂ひとか  鴇田智哉

【2022年6月の火曜日☆杉原祐之のバックナンバー】

>>〔1〕仔馬にも少し荷を付け時鳥    橋本鶏二
>>〔2〕ほととぎす孝君零君ききたまへ  京極杞陽
>>〔3〕いちまいの水田になりて暮れのこり 長谷川素逝
>>〔4〕雲の峰ぬつと東京駅の上     鈴木花蓑

【2022年6月の水曜日☆松野苑子のバックナンバー】

>>〔1〕でで虫の繰り出す肉に後れをとる 飯島晴子
>>〔2〕襖しめて空蟬を吹きくらすかな  飯島晴子
>>〔3〕螢とび疑ひぶかき親の箸     飯島晴子
>>〔4〕十薬の蕊高くわが荒野なり    飯島晴子
>>〔5〕丹田に力を入れて浮いて来い   飯島晴子

【2022年5月の火曜日☆沼尾將之のバックナンバー】

>>〔1〕田螺容れるほどに洗面器が古りし 加倉井秋を
>>〔2〕桐咲ける景色にいつも沼を感ず  加倉井秋を
>>〔3〕葉桜の夜へ手を出すための窓   加倉井秋を
>>〔4〕新綠を描くみどりをまぜてゐる  加倉井秋を
>>〔5〕美校生として征く額の花咲きぬ  加倉井秋を

【2022年5月の水曜日☆木田智美のバックナンバー】

>>〔1〕きりんの子かゞやく草を喰む五月  杉山久子
>>〔2〕甘き花呑みて緋鯉となりしかな   坊城俊樹
>>〔3〕ジェラートを売る青年の空腹よ   安里琉太
>>〔4〕いちごジャム塗れとおもちゃの剣で脅す 神野紗希

【2022年4月の火曜日☆九堂夜想のバックナンバー】

>>〔1〕回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア  豊口陽子
>>〔2〕未生以前の石笛までも刎ねる    小野初江
>>〔3〕水鳥の和音に還る手毬唄      吉村毬子
>>〔4〕星老いる日の大蛤を生みぬ     三枝桂子

【2022年4月の水曜日☆大西朋のバックナンバー】

>>〔1〕大利根にほどけそめたる春の雲   安東次男
>>〔2〕回廊をのむ回廊のアヴェ・マリア  豊口陽子
>>〔3〕田に人のゐるやすらぎに春の雲  宇佐美魚目
>>〔4〕鶯や米原の町濡れやすく     加藤喜代子

【2022年3月の火曜日☆松尾清隆のバックナンバー】

>>〔1〕死はいやぞ其きさらぎの二日灸   正岡子規
>>〔2〕菜の花やはつとあかるき町はつれ  正岡子規
>>〔3〕春や昔十五万石の城下哉      正岡子規
>>〔4〕蛤の吐いたやうなる港かな     正岡子規
>>〔5〕おとつさんこんなに花がちつてるよ 正岡子規

【2022年3月の水曜日☆藤本智子のバックナンバー】

>>〔1〕蝌蚪乱れ一大交響楽おこる    野見山朱鳥
>>〔2〕廃墟春日首なきイエス胴なき使徒 野見山朱鳥
>>〔3〕春天の塔上翼なき人等      野見山朱鳥
>>〔4〕春星や言葉の棘はぬけがたし   野見山朱鳥
>>〔5〕春愁は人なき都会魚なき海    野見山朱鳥

【2022年2月の火曜日☆永山智郎のバックナンバー】

>>〔1〕年玉受く何も握れぬ手でありしが  髙柳克弘
>>〔2〕復讐の馬乗りの僕嗤っていた    福田若之
>>〔3〕片蔭の死角から攻め落としけり   兒玉鈴音
>>〔4〕おそろしき一直線の彼方かな     畠山弘

【2022年2月の水曜日☆内村恭子のバックナンバー】

>>〔1〕琅玕や一月沼の横たはり      石田波郷
>>〔2〕ミシン台並びやすめり針供養    石田波郷
>>〔3〕ひざにゐて猫涅槃図に間に合はず  有馬朗人
>>〔4〕仕る手に笛もなし古雛      松本たかし

【2022年1月の火曜日☆菅敦のバックナンバー】

>>〔1〕賀の客の若きあぐらはよかりけり 能村登四郎
>>〔2〕血を血で洗ふ絨毯の吸へる血は   中原道夫
>>〔3〕鉄瓶の音こそ佳けれ雪催      潮田幸司
>>〔4〕嗚呼これは温室独特の匂ひ      田口武

【2022年1月の水曜日☆吉田林檎のバックナンバー】

>>〔1〕水底に届かぬ雪の白さかな    蜂谷一人
>>〔2〕嚔して酒のあらかたこぼれたる  岸本葉子
>>〔3〕呼吸するごとく雪降るヘルシンキ 細谷喨々
>>〔4〕胎動に覚め金色の冬林檎     神野紗希

【2021年12月の火曜日☆小滝肇のバックナンバー】

>>〔1〕柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺    正岡子規
>>〔2〕内装がしばらく見えて昼の火事   岡野泰輔
>>〔3〕なだらかな坂数へ日のとある日の 太田うさぎ
>>〔4〕共にゐてさみしき獣初しぐれ   中町とおと

【2021年12月の水曜日☆川原風人のバックナンバー】

>>〔1〕綿入が似合う淋しいけど似合う    大庭紫逢
>>〔2〕枯葉言ふ「最期とは軽いこの音さ」   林翔
>>〔3〕鏡台や猟銃音の湖心より      藺草慶子
>>〔4〕みな聖樹に吊られてをりぬ羽持てど 堀田季何
>>〔5〕ともかくもくはへし煙草懐手    木下夕爾

【2021年11月の火曜日☆望月清彦のバックナンバー】

>>〔1〕海くれて鴨のこゑほのかに白し      芭蕉
>>〔2〕木枯やたけにかくれてしづまりぬ    芭蕉
>>〔3〕葱白く洗ひたてたるさむさ哉      芭蕉
>>〔4〕埋火もきゆやなみだの烹る音      芭蕉
>>〔5-1〕蝶落ちて大音響の結氷期  富沢赤黄男【前編】
>>〔5-2〕蝶落ちて大音響の結氷期  富沢赤黄男【後編】

【2021年11月の水曜日☆町田無鹿のバックナンバー】

>>〔1〕秋灯机の上の幾山河        吉屋信子
>>〔2〕息ながきパイプオルガン底冷えす 津川絵理子
>>〔3〕後輩の女おでんに泣きじゃくる  加藤又三郎
>>〔4〕未婚一生洗ひし足袋の合掌す    寺田京子

【2021年10月の火曜日☆千々和恵美子のバックナンバー】

>>〔1〕橡の実のつぶて颪や豊前坊     杉田久女
>>〔2〕鶴の来るために大空あけて待つ  後藤比奈夫
>>〔3〕どつさりと菊着せられて切腹す   仙田洋子
>>〔4〕藁の栓してみちのくの濁酒     山口青邨

【2021年10月の水曜日☆小田島渚のバックナンバー】

>>〔1〕秋の川真白な石を拾ひけり   夏目漱石
>>〔2〕稻光 碎カレシモノ ヒシメキアイ 富澤赤黄男
>>〔3〕嵐の埠頭蹴る油にもまみれ針なき時計 赤尾兜子
>>〔4〕野分吾が鼻孔を出でて遊ぶかな   永田耕衣


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